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“悪い種子”という決めつけが子供を傷つける カンヌ受賞『怪物』『誰も知らない』ほか日本映画から「社会派ドラマ」の真髄を探る

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ライター:#谷川建司
“悪い種子”という決めつけが子供を傷つける カンヌ受賞『怪物』『誰も知らない』ほか日本映画から「社会派ドラマ」の真髄を探る
©2023「怪物」製作委員会
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『護られなかった者たちへ』:行政側の“性悪説的な不作為”というリアル

数々の話題作を送り続ける瀬々敬久監督が、中山七里の原作を基に手掛けた『護られなかった者たちへ』(2021年)は、『誰も知らない』や『葛城事件』と比較すると豪華スター陣の競演、犯人は誰なのかという謎解きの要素を含むストーリー、という点でよりエンターテインメント的要素も多い構えの作品だ。しかし、その根底にある問題意識は、日本社会に確実に存在する“貧困”と、社会のセーフティネットとしての生活保護制度の運用に関しての、行政側の性悪説的な不作為というリアルな現実である。

生活保護費の不正受給問題はメディアでもよく取り上げられるし、ある芸能人はその母親が不正受給していた事実を叩かれて芸能活動自粛を迫られたりしている。そういった“不正は許すまじ”という自粛警察的な世の中の風潮に後押しされてか、行政側の対応というのも“疑わしきは難癖をつけて門前払いすべし”とばかりに、困っている可能性のある人を助けることよりも自分たちの組織が批判に晒されないことばかりが目的化していく。

そうした不作為が、結果として本当に困っている人の最後の望みさえも断ち切ってしまうという現実を、ここでは東日本大震災の後の混乱の中、肩寄せ合って過ごした、ある年配女性とそれぞれに身寄りをなくした青年と少女という疑似的な家族三人の絆、そして行政の不作為に対する復讐の物語として描いている。

移民申請に際して三度目の申請で新たな証拠を提出できない場合は本国へ強制送還することを主眼として、つい先日改悪された入管法にも同様の性悪説が根底にあるように思えてならない。

護られなかった者たちへ

©2021 映画「護られなかった者たちへ」製作委員会

『ドライブ・マイ・カー』:直視したくない現実から目を背けるのは罪か?

今回取り上げた他の作品と比べると、『ドライブ・マイ・カー』は“社会派ドラマ”に入るのか微妙かもしれない。村上春樹の原作(同題の短編に他の短編の要素を付加)も、濱口竜介監督のアプローチも、社会の問題点をあぶりだすというのではなく、二人の主人公それぞれの抱える心の闇とその救済、という内向的な物語だからだ。

だが、広島国際演劇祭での演出のために長期滞在する売れっ子舞台演出家の主人公・家福(西島秀俊)と、彼の専属ドライバーとして雇われたみさき(三浦透子)が心に蓋をして閉じ込めていた感情(原罪意識)は、二人ほど劇的な形ではないにしろ多かれ少なかれ誰もが持っていて、かつそこから目を背けているものなのかもしれない。

家福の場合、妻の浮気を見て見ぬふりをしていたことが却って妻を苦しめ、その突然の死の遠因になったのではという意識。みさきの場合は、死んでしまえばいいのにと密かに願っていた、自分を虐待していた母親が、実際に地滑りで土砂に飲み込まれて死んだことを、どう心の中で折り合いをつけるか、という問題。……直視したくない現実から目を背けて心の平穏を保とうとすることは、罪といえるのか?

ドライブ・マイ・カー インターナショナル版

©2021『ドライブ・マイ・カー』製作委員会

こうして、“社会派ドラマ”の傑作と言われる近年の作品を改めて振り返ってみると、確かな共通点がありそうだ。それは、世の中の仕組みや人の対応などで苛立ちを覚えるような、いわゆる“あるある”で共感を得させるだけでなく、その先に観客自身の “自分ごと”として考えさせるだけの余裕・余韻を持ち得ているということ。それが“社会派ドラマ”の神髄ではないだろうか。

文:谷川建司

『怪物』は全国公開中

『誰も知らない』『ドライブ・マイ・カー』はCS映画専門チャンネル ムービープラスで2023年7月放送

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