追悼:ジャン=リュック・ゴダール 「ヌーヴェル・ヴァーグの旗手」「映画の神様」の半生を振り返る

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ライター:齋藤敦子
追悼:ジャン=リュック・ゴダール 「ヌーヴェル・ヴァーグの旗手」「映画の神様」の半生を振り返る
APS-Medias / Abaca / Sipa USA / Zeta Image

追悼:ジャン=リュック・ゴダール

2022年9月13日、映像表現の最先端で世界の映画を牽引してきたジャン=リュック・ゴダールが91歳で亡くなった。死去の一報を聞いたとき、どこかでゴダール=映画の神様は死なないと思っていた自分がいたのに気づき、彼も普通の人間だったことに軽いショックを受けた。が、ついでスイスの自宅で尊厳死したという報を聞いて、さらにショックを受けた。そういえばスイスは尊厳死を認めていて、自殺幇助機関があったことを思い出した。ただ、最初の衝撃が過ぎると、自分の人生を自分の意志で終えるというのは、いかにも完璧主義者のゴダールらしいと思えるようになった。

ジャン=リュック・ゴダールの映画と人生について、今さら私が語るべきことは何もない。研究書なら大量にあるし、何よりも作品が雄弁に彼という映画作家を語ってくれるだろう。なので、ここでは“私がゴダールについて知っている二、三の事柄”を思いつくままに紹介して追悼としたい。

正反対のトリュフォーとゴダール、不器用な友情

1950年代後半から始まるフランスのヌーヴェル・ヴァーグ(新しい波)で、ゴダールはフランソワ・トリュフォーと並ぶ旗手だったが、二人は性格も映画もまったく正反対だった。

1932年2月6日にパリで生まれたトリュフォーは、自分の分身をジャン=ピエール・レオに演じさせた長編デビュー作『大人は判ってくれない』(1959年)で活写した通り、劣悪な家庭環境で育った不良少年だった。“ヌーヴェル・ヴァーグの父”映画評論家のアンドレ・バザンを師とし、精神的な父として慕い、カイエ・デュ・シネマ誌で古臭いフランス映画を苛烈に批判した。

一方のゴダールは、1930年12月3日にパリの裕福な家庭に生まれ、パリがドイツ軍に占領されると一家でスイスに移住した。知的なインテリだから、ひ弱かと思うと、趣味がテニスというスポーツマンだった。トリュフォーは叙情的なテーマを古典的な手法で描いたが、ゴダールは常に革新的な作品で映像表現の先端を走り続けた。

伝説的プロデューサー、ピエール・ブロンベルジェは、二人に唯一の共同監督作『水の話』(1958年)を撮らせた人だが、彼はトリュフォーを“映画的表現にのっとって正統的な映画を作り”、ゴダールを“創造という分野で最も非凡な人間”と書いている(拙訳<シネマメモワール>白水社刊)。

シネマメモワール

トリュフォーとゴダールとカンヌ映画祭

1968年にトリュフォーとゴダールは共闘してカンヌ映画祭を中止に追い込んだ。事件の元をたどれば、時の文化大臣アンドレ・マルローが同年2月に起こしたシネマテーク館長アンリ・ラングロワ解任事件に端を発する。5月にパリで学生運動が盛り上がりをみせたとき、カンヌで先頭に立って“こんなところで映画を見ている場合ではない”とアジって映画祭を中止させたのだ(この事件をきっかけに、フランス映画監督協会を母体とした監督週間部門が翌69年のカンヌから創設される)。聞くところによれば、より過激だったのはトリュフォーで、ゴダールは中止までは考えていなかったようだ。

トリュフォーは『大人は判ってくれない』を1959年のカンヌに出品し、審査委員長だったジャン・コクトーに絶賛され、監督賞を受賞して世界の注目を集めたが、1968年の事件以降、自作をカンヌに出品しなかった。

ゴダールは、長編デビュー作『勝手にしやがれ』(1960年)をベルリンに出して監督賞を受賞。以後、ベルリンとヴェネツィアを選んで出品し、カンヌと“和解”したのは、彼がテレビの映像作品から商業映画に復帰した1980年の『勝手に逃げろ/人生』からである。

トリュフォーは1984年10月21日に52歳で亡くなってしまうので、彼が映画を作り続けたらカンヌと仲直りすることになったかどうか、今となっては分からない。ただ、トリュフォーは自分の主義・主張に忠実だったから、カンヌを無視し続けたとしても不思議ではない。

ゴダールが公の場から遠ざかった理由

私がパリ留学から帰国してすぐ就職したフランス映画社は、柴田駿社長がゴダールの崇拝者だったので、可能な限りすべてのゴダール映画を配給したがったが、ゴダールはお金にうるさく、少しでも多く出してくれる会社へ売ってしまうので、なかなか叶わなかった。その点、『旅芸人の記録』(1975年)を日本でヒットさせたことに恩義を感じ、最後まで配給を任せてくれたテオ・アンゲロプロスとは対照的だった。

フランス映画社には“来日ゲストは飛行機に乗るまで油断するな”という社訓があった。それは『気狂いピエロ』(1965年)公開のとき、記者会見とインタビューの予定を決めたあとで、当日ゴダールが飛行機に乗らなかったことが分かって、すべてキャンセルせざるをえなかった事件から来ている(注:フランス映画社創立前で、当時の配給はヘラルド)。

ゴダールが日本嫌いだったわけではなく、当時付き合っていたマリナ・ヴラディにくっついて、『OSS117/東京の切札』(1966年)のロケで来日している。2002年に高松宮記念世界文化賞受賞で来日したときが2度目。バルセロナのフィルモテカがゴダールのレトロスペクティヴを企画し、招待状を送ったときは現れなかったと聞いたが、世界文化賞は授賞式に出ないと賞金1500万円が貰えないから絶対に来る、と来日をいぶかる友人に断言したら、やっぱり来たので笑ってしまった。

ヌーヴェル・ヴァーグの旗手として、世界的な映像作家として、たちまち映画のアイコンとなったゴダールだから、公の場に出れば必ずパパラッチやファンに追い回され、次第に人嫌いになっていったのも分かる気がする。創作に費やすべき人生の貴重な時間を他人に煩わされるのは、さぞ嫌だったろう。ならば対価を支払え、と思ったのかもしれない。それには一理あると私は思う。

カンヌで顔にアイスクリームをぶつけられるという事件があったせいか、いつからか映画祭に姿を見せなくなった。ゴダールの記者会見は、彼の皮肉に満ちた受け答えが絶妙で、最高に面白かっただけに残念だったが、2018年に遺作になった『イメージの本』をカンヌに出品したときは(特別パルム・ドール受賞)、本人は自宅にいるままスマホの画面からQ&Aを行ったのが、いかにもゴダールらしかった。

盟友アニエス・ヴァルダ、晩年のゴダール

アニエス・ヴァルダの『顔たち、ところどころ』(2017年)の最後に、ヴァルダとJRがゴダールを訪ねていく場面がある。二人がドアをいくら叩いても(半ば予想通り)ゴダールが現れずに終わる。このときのゴダールの態度が長年の友人に冷めたすぎると予想以上の反響があり、カンヌ映画祭の記者会見で、ヴァルダは前もって“嫌なら出てこないで”と手紙を出しておいたのだとゴダールをかばっていた。ヴァルダは本当に心が豊かで暖かい人だったが、そんな彼女も、超絶美人だった若い頃は、性格がとてもきつかったとブロンベルジェは書いている。

私はトリュフォーに直接会ったことはないが、パリの映画館で偶然遭遇した友人によれば、とても優しい人だったそうだ。若い頃のゴダールはスタイルがよくて颯爽としていたが、晩年は、無精髭で煙草を離さず、身の回りを構わない、いかにも偏屈そうな老人になっていた。

『イメージの本』の後も新作を用意していると聞いていたが、老いと共に満足のいく作品を創る体力が失われていることを自覚したのだろう。生前、あれだけ他人に煩わされるのを嫌った人だから、死後も同様で、墓は作らず、どこか景色の美しい、誰も来ないところに散骨するよう遺言したに違いない、と私は勝手に推測している。合掌。

文:齋藤敦子

『勝手にしやがれ』『気狂いピエロ』『女と男のいる舗道』はU-NEXTほか配信中

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