母と娘が出会ったのは未婚の妊婦 ― 心に傷を抱えながらも前に進む姿が愛おしい人間ドラマ『モロッコ、彼女たちの朝』

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ライター:髙橋直樹
母と娘が出会ったのは未婚の妊婦 ― 心に傷を抱えながらも前に進む姿が愛おしい人間ドラマ『モロッコ、彼女たちの朝』
『モロッコ、彼女たちの朝』©Ali n' Productions - Les Films du Nouveau Monde - Artemis Productions

日本初上陸のモロッコ映画

ある週末、床屋で支払いをしていると、外から僕を見つめている視線に気がついた。そこにはお父さんと手をつないだ少女の姿があり、僕と目が合うとにっこりと微笑む。「ガン見されちゃった」と笑っていると、女の子が手を振っている。思わず手を振り返した僕は穏やかな気分に包まれた。

女優としても活動するマリヤム・トゥザニ監督の長編デビュー作『モロッコ、彼女たちの朝』は、日本で劇場公開される初めてのモロッコ発の長編映画。舞台となるのはカサブランカ旧市街の路地裏。監督家族が出会った“未婚の妊婦”とのエピソードから紡がれた作品だ。

マリヤム・トゥザニ監督

小さなパン屋、カサブランカの路地裏でふたりの女性が出会う

田舎の村からカサブランカに出稼ぎに来た理容師サミア(ニスリン・エラディ)の身体には子どもが宿る。男の存在はすでになく、彼女には頓着する余裕すらない。一刻も早く仕事を見つけ、泊まる場所も見つけなければならない。美容師が無理なら家政婦でも可、とにかく住み込みで働ける場所が必要なのだ。

これで何軒目だろう、諦めずにノックすると「お姉さん」と声がする。すでに夕刻、藁にも縋りたい彼女が見上げた二階の窓から小さな顔をのぞかせたワルダ(ドゥア・ベルハウダ)が「お姉さん、名前は?」と話しかける。「サミア」と応えた時、扉を開けたアブラ(ルブナ・アザバル)が怪訝な面持ちで見つめる。背後には駆け降りてきた少女の存在を感じる。だが、突然の訪問者を一瞥した女主人は、瞬時に“ワケあり”だと判断し固くドアを閉ざす。

『モロッコ、彼女たちの朝』©Ali n’ Productions – Les Films du Nouveau Monde – Artemis Productions

「手伝ってもらえば良いのに」と感じたままを口にする娘。でも、パンを焼いて娘との暮らしを守ってきたアブラには簡単には受け入れられない相談だ。規律が重視されるこの町で、素性が知れない妊婦を迎え入れる余裕などあるはずがない。

でも、路地で妊婦が途方に暮れている。夕食中も、娘の宿題を見ている時も、窓の先には身重な女性がいる。路上で一夜を過ごすのかと思うと気が気ではない。いよいよ就眠時間になるが眠れるわけがない。意を決したアブラは周囲を気にしながら近づくと「早く来て」とサミアを迎え入れる。

『モロッコ、彼女たちの朝』©Ali n’ Productions – Les Films du Nouveau Monde – Artemis Productions

女優ふたりの競演が生み出す特別なモーメント

『モロッコ、彼女たちの朝』は、欠落を抱えながらも肯定的に生きたいと願うふたりの女性が出会い、それぞれに変容していく様を描く作品だ。

アブラを演じるのは、『灼熱の魂』(2010年)で世界に存在を知らしめたベルギー出身のルブナ・アザバル。サミアにはモロッコ生まれの若き女優ニスリン・エラディが起用された。ふたりの競演がこの作品に特別なモーメントを与えている。

『モロッコ、彼女たちの朝』©Ali n’ Productions – Les Films du Nouveau Monde – Artemis Productions

愛娘ワルダのことを第一に考えながら小さなパン屋を営むアブラは、ふたりの生活を守るために自分に厳しく生きてきた。言葉少なく、黙々と小麦粉をこね、着火の悪いオーブンに閉口しながら、毎日パンを焼いている。そんな彼女が体験する眠れない三つの夜。その瞬間がいつ訪れるのかはここでは語らないが、言葉少ない難役を見事に体現するルブナ・アザバルの女優魂は凄まじい。セリフがない場面で目を泳がせ、揺れ動く視線で心の疼きを伝える。何をするではなく独り身体を動かす所作の妙技が心を震わせる。

『モロッコ、彼女たちの朝』©Ali n’ Productions – Les Films du Nouveau Monde – Artemis Productions

奔放でありながら傷つきやすい心を抱えるサミアに扮したニスリン・エラディも負けてはいない。つぶらな瞳が発する気の強さは、ワルダと戯れる時には慈しみに満ちる。アブラの今を受け止めながら、固く閉ざされた心を包み込み、パン生地を優しくこねるように解きほぐしていく。そして、未婚の母が許容されない社会で究極の選択を迫られたサミアが葛藤する永い夜に胸を締めつけられる。

『モロッコ、彼女たちの朝』©Ali n’ Productions – Les Films du Nouveau Monde – Artemis Productions

「母に捧げる」――監督の切なる思いの先にある未来

困っている女性を助けたい。母の笑顔を見たい。ふたりの女性を引き合わせるのは、あどけない少女の純な願いだ。お母さんのパンも好きだけど、サミアが焼いてくれるモロッコ伝統のパンケーキ“ルジザ”は特別だ。目にしたことを素直に受け止める少女には、“今”を肯定するチカラが宿り、この作品を「母に捧げる」と献辞したマリヤム・トゥザニ監督の切なる想いをつないでいく。

『モロッコ、彼女たちの朝』©Ali n’ Productions – Les Films du Nouveau Monde – Artemis Productions

不寛容で窮屈なモロッコ社会の片隅で、サミアがノックしたのは紛れもなくアブラの心の扉だ。胸の奥に秘め続けた過去の自分と向き合っていくアブラと、新たな命を宿した自分を認めていくサミア。

『モロッコ、彼女たちの朝』©Ali n’ Productions – Les Films du Nouveau Monde – Artemis Productions

人々が溢れるカサブランカ旧市街の路地裏にはどんな未来が待っているのか。監督は、その先を観客ひとりひとりに委ねている。新しい朝、ふたりはどこに向かうのか。それはきっとあなたの心に浮かび上がるに違いない。

あの日の少女の微笑みを僕は忘れない。ワルダはすぐ傍らにいるはずだから。

『モロッコ、彼女たちの朝』©Ali n’ Productions – Les Films du Nouveau Monde – Artemis Productions

文:髙橋直樹

『モロッコ、彼女たちの朝』は2021年8月13日(金)よりTOHOシネマズ シャンテほか全国公開

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『モロッコ、彼女たちの朝』

臨月のお腹を抱えてカサブランカの路地をさまようサミア。イスラーム社会では未婚の母はタブー。美容師の仕事も住まいも失った。ある晩、路上で眠るサミアを家に招き入れたのは、小さなパン屋を営むアブラだった。アブラは夫の死後、幼い娘のワルダとの生活を守るために、心を閉ざして働き続けてきた。パン作りが得意でおしゃれ好きなサミアの登場は、孤独だった親子の生活に光をもたらす。商売は波に乗り、町中が祭りの興奮に包まれたある日、サミアに陣痛が始まった。生まれ来る子の幸せを願い、養子に出すと覚悟していた彼女だが……。

制作年: 2019
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