『善き人のためのソナタ』の監督が描く“善悪や美醜の挾間にある真実”とは? 格別な時の流れが観客を魅了する『ある画家の数奇な運命』

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ライター:髙橋直樹
『善き人のためのソナタ』の監督が描く“善悪や美醜の挾間にある真実”とは? 格別な時の流れが観客を魅了する『ある画家の数奇な運命』
『ある画家の数奇な運命』©2018 PERGAMON FILM GMBH & CO. KG / WIEDEMANN & BERG FILM GMBH & CO. KG

耳を澄ませることは、心を清ませること――静謐なる傑作『善き人のためのソナタ』

ドイツの映画監督フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルクの長編デビュー作『善き人のためのソナタ』(2006年)は、サスペンスが効いた静かな描写の中に生きることの奇跡を現出させる、まさに静謐という言葉がふさわしい傑作だった。

1984年、自由化の気運が高まる東ドイツでは秘密警察による反体制派の監視が恒常化していた。組織に忠誠を誓う局員に課せられたのは、舞台演出家と同棲する女性の監視だ。一見、秘密警察とは思えない平凡な外見で風景に溶け込んでしまうその男は、アパートに盗聴器を仕掛けて監視を開始する。反体制派だと断定する証拠発見のために耳を澄ませるが、聴こえてくるのは生きる喜びを語り合う男女の愛し合う姿。やがて、時代の命に従った男の心には、組織と自身の行動に対する疑念と共に大きな変化が訪れる。

観客はいつしかこの男と同じように、一組のカップルの会話に耳を澄ませ、彼らの発する言葉や生活音、そしてピアノの調べに心を清ませていく。盗聴による監視活動を静謐な映像表現に昇華し、東ドイツの「ある時代」を生きた人々の気づきを描いた『善き人のためのソナタ』は、タイトルとなったピアノ曲が心に染みこみ深い余韻を残す。

ドイツの現代アートを牽引する画家ゲルハルト・リヒターの謎めいた人生『ある画家の数奇な運命』

ドナースマルク監督の最新作『ある画家の数奇な運命』は、ドイツの現代アート界を牽引する孤高の画家、ゲルハルト・リヒターをモデルにして描かれた作品だ。

『ある画家の数奇な運命』©2018 PERGAMON FILM GMBH & CO. KG / WIEDEMANN & BERG FILM GMBH & CO. KG

ナチス台頭前夜の1932年に生まれたリヒターは、ドレスデン芸術大学で絵画を学んだ後、ベルリンの壁が築かれ始めた1961年に西ドイツへと亡命。デュッセルドルフ美術アカデミーで創作を追求し、現在は壁が取り払われたドイツに生きる画家だ。幼き日を共に過ごした叔母は、ナチスによる人民浄化を目的とした安楽死政策によってガス室に送られた。医師であった義父は元ナチス将校で、まさに身を以てドイツの負の歴史を生き抜いた人だ。

『ある画家の数奇な運命』©2018 PERGAMON FILM GMBH & CO. KG / WIEDEMANN & BERG FILM GMBH & CO. KG

独自の視点で生み出された作品と謎めいた生い立ちに魅了された監督は、リヒターの著作や評伝を基に脚本を書き上げると「1時間だけ会ってほしい」としたためた手紙を送った。2日後、孤高の画家から特別に面会が許される。1時間のつもりが、その後4週間にも及び、ついにはリヒター自身が青春期を過ごしたドレスデンを案内してくれたという。

『ある画家の数奇な運命』©2018 PERGAMON FILM GMBH & CO. KG / WIEDEMANN & BERG FILM GMBH & CO. KG

リヒターは映画化に向けて、いくつかの条件を出した。会話の記録は一切漏らしてはならない。劇中の人名を変える。映画のためだけのオリジナルの絵画を使用する。そして最も重要な点が、「映画の中で何が真実かを決して明らかにしない」ことだった。

それでも「真実はすべて美しい」……叔母の言葉が彼を突き動かしていく

『ある画家の数奇な運命』の英題は『never look away』、直訳すると「決して目を逸らさない」という意味だ。

前作では、耳を澄ませることで東ドイツの「ある時代」を生きた人々を描いたドナースマルク監督は、「ある画家」が目を逸らさずに見つめたことを通して、ドイツ激動の時代を浮き彫りにしていく。ナチスの台頭と敗戦、国家の東西分割、ベルリンの壁の崩壊から現在の国家体制に至るまで、ドイツが体験した目を覆いたくなるような“狂気の時代”に画家はなにを見たのか。

『ある画家の数奇な運命』©2018 PERGAMON FILM GMBH & CO. KG / WIEDEMANN & BERG FILM GMBH & CO. KG

5歳の少年クルトは美しい叔母エリザベト(ザスキア・ローゼンタール)の影響で絵を描くことに目覚める。だが、精神疾患と診断された彼女は「目を逸らさないで。真実はすべて美しい」という言葉を残して病院に送られてしまう。

『ある画家の数奇な運命』©2018 PERGAMON FILM GMBH & CO. KG / WIEDEMANN & BERG FILM GMBH & CO. KG

戦渦の中で成長したクルト(トム・シリング)は美術大学に進学した矢先、突然父が自殺。絵に没頭する日々の中で叔母の面影がある女性エリー(パウラ・ベーア)と出会う。固く結ばれたふたりは結婚するが、医師である義父ゼーバント(セバスチャン・コッホ)による理不尽な中絶手術で第一子の命を奪われてしまう。

『ある画家の数奇な運命』©2018 PERGAMON FILM GMBH & CO. KG / WIEDEMANN & BERG FILM GMBH & CO. KG

分断された国家から真実を求めて亡命した西ドイツで、「自由があるのは芸術だけ」だと断言するフェルテン教授(オリヴァー・マスッチ)によって新たな学びの場を与えられる。だが、教授はクルトの作品を一瞥すると「これは君ではない」と踵を返してしまう。なにを描けば良いのか。懸命に題材を探す彼の目にとまったのは、元ナチス親衛隊幹部の逮捕を知らせる新聞に掲載された一枚の写真だった。

『ある画家の数奇な運命』©2018 PERGAMON FILM GMBH & CO. KG / WIEDEMANN & BERG FILM GMBH & CO. KG

善悪や美醜の挾間にある真実とは!?

自分を解き放つこと。自由とは、愛するとは、生きるとは、一体どんなことなのか。そして、真実とは本当に美しいことなのか。今、感じている自分のすべてを絵画にぶつけること。幼き日のときめきと、美しい叔母が残した言葉に突き動かされ続けたクルトは、創作の過程でなにを見出すことになるのか。

『ある画家の数奇な運命』©2018 PERGAMON FILM GMBH & CO. KG / WIEDEMANN & BERG FILM GMBH & CO. KG

たとえどんなことが起こったとしても、決して目を逸らさない。それでも「真実はすべて美しい」のだと信じるクルトを演じたトム・シリングのピュアなまなざしと誠実な佇まいが全編を貫き、作品にナチュラルなリアリティを与えている。

『ある画家の数奇な運命』©2018 PERGAMON FILM GMBH & CO. KG / WIEDEMANN & BERG FILM GMBH & CO. KG

最後に、12年間の歳月を費やしたリチャード・リンクレイター監督作『6才のボクが、大人になるまで。』(2014年)の上映時間は165分だった。『ある画家の数奇な運命』は189分である。ドナースマルク監督は、主人公クルトが体感した四半世紀にわたる刻一刻にある特別なモーメントを、説明過多に陥ることなく、時間をかけて丁寧に描いていく。決して慌てることなく、“善悪や美醜の挾間にある真実”を呈示しようと試みている。この映画にある格別な時の流れを心ゆくまで楽しんでもらいたい。

文:髙橋直樹

『ある画家の数奇な運命』は2020年10月2日(金)よりTOHOシネマズ シャンテほか全国公開

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『ある画家の数奇な運命』

ナチ政権下のドイツ。少年クルトは叔母の影響から、芸術に親しむ日々を送っていた。ところが、精神のバランスを崩した叔母は強制入院の果て、安楽死政策によって命を奪われる。終戦後、クルトは東ドイツの美術学校に進学し、そこで出会ったエリーと恋におちる。元ナチ高官の彼女の父親こそが叔母を死へと追い込んだ張本人なのだが、誰もその残酷な運命に気づかぬまま二人は結婚する。やがて、東のアート界に疑問を抱いたクルトは、ベルリンの壁が築かれる直前に、エリーと西ドイツへと逃亡し、創作に没頭する。美術学校の教授から作品を全否定され、もがき苦しみながらも、魂に刻む叔母の言葉「真実はすべて美しい」を信じ続けるクルトだったが――。

制作年: 2020
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