究極のホラー
ある日、娘がやってきて、いきなり「どうして介護士をいじめて辞めさせるの? 彼女、泣いてたわ。もう他にいないかもしれない」と怒り始める。もともと必要のない人間を無理やり押し付けておいて、理不尽に責められるとはどういうことだ。大事な時計がなくなっている。あいつが盗んだに違いないのに信じてくれない。おまけに娘はパリに住むことになるから、面倒を見られないと言い始める。自分のこと以外はどうでもいいのだ。
とはいえ娘以外は信用できない。いや、娘夫婦だって勝手に俺のフラットに住み始めておいて、まるで自分の家にいるかのように振る舞うとはどういう了見なのか。しかも娘の夫だという男には全く見覚えもない。あろうことか男は「いい加減にしてくれ。いつまで我々をイラつかせるんだ」と言いがかりをつけてくる。
次々に身に降りかかる不可思議な出来事に気が狂いそうだ。本当は毎日やってくる娘はあまり自分の好みではなかった。絵の才能に溢れていた妹を可愛がっていたのに、最近は顔を出すこともない。落ち着いて暮らせるのはいつのことだろう。
本作『ファーザー』では、心をかき乱されるのはアンソニー・ホプキンス演じる主人公の老人、アンソニーだけではない。安部公房の不条理劇を観ているようで、映画を観る側も何がどうなっているのか不安になってくる。この設定の中ではラップ現象が起こるわけでもないし、殺人鬼も登場しない。祟りも呪いもない。アンソニーにとっては真っ当な現実の中で起こる恐怖体験なのである。
しかし、微妙な違和感が漂いはじめ、我々も辻褄の合わない「現実」に戸惑い、逃げ出したくなる。「ホラー映画」ではとても感じられない、究極のホラーである。
「Who exactly am I?」
私は一体誰なのだ。アンソニーは叫ぶ。
年老いて、記憶がバラバラに壊れ始め、知っているはずの人間が見ず知らずの他人としか感じられない。現実が時系列を追って把握できなくなる。人間にとってある種の自然現象なのかもしれないが、壊れていく私にはそんなことはわからない。
この作品は、おそらく観る人間の年齢で受け止め方が異なるのではないか。若い人はオリヴィア・コールマン演じるアンソニーの娘、アンの視点でどうにもコントロールできない父親にいらだつだろう。63歳の私は半ばアンソニーと同じ恐怖に震える。
自分は何者なのか、常に他者と接しながら人間関係の中に「自分」を確認している私たちは、「本来の自分」を当たり前のように信じているが、本当に「本来の自分」は「私」であるのだろうか。「他者の見る私」と「私が私であると確信する私」が同じであることなんてありえない。「現実」とて同じ出来事に遭遇していたとしても、人によって見たものは異なるのである。
アンソニーの「Who exactly am I?」という叫びは、私には観る者への根源的な問いかけのように感じられた。
アンソニー・ホプキンスとオリヴィア・コールマン
『ファーザー』はもともとは舞台作品で、2012年に初めてパリで上演され、その後ロンドン、ニューヨーク、東京を始め世界各地で大成功を収め、数々の演劇賞を受賞している。この不安と焦燥に満ちた作品が世界中で受け入れられたということは、いずれの地にも同様の苦悩を抱えた人がいるということであろう。
登場人物が極端に限られている会話劇は、全編97分を通して緊張感に満ちている。映画化するにあたり、舞台のオリジナル戯曲を書いたフロリアン・ゼレールは初めてではあるが自分が監督となることを選び、アンソニー・ホプキンスのために当て書きに変更したという。主人公の名前アンソニーは偶然ではなく意図的にアンソニー・ホプキンスからとったもので、年齢・誕生日の設定まで同じくしてしまった。
つまり、イギリスで2020年公開だったこの作品中では、アンソニーもアンソニー・ホプキンスも82歳である。その細かなこだわりは見事にスクリーンに反映されており、アンソニーの苦悩、悲しみ、絶望、そしてちょっとしたユーモラスな喜びはアンソニー・ホプキンス以外に演じられる者はいない。そして、『羊たちの沈黙』(1991年)でレクター博士として観るもの全員を絶句させ、第64回アカデミー賞で主演男優賞を受賞し、約30年後に再び主演男優賞の有力候補となっている。
?21アカデミー賞ノミネーションBESTトリビア#アンソニー・ホプキンス
— 【公式】映画『ファーザー』?5.14公開 (@thefather_movie) April 7, 2021
- 80代で最初の2年連続ノミニー(『2人のローマ教皇』助演男優賞)
- 主演男優賞史上最高齢ノミニー(83歳)
- 80代で演技賞に2回以上ノミネートされた3人目(ジェシカ・タンディ、クリストファー・プラマー)https://t.co/xEPf3BVjZP pic.twitter.com/SsD4YOUOLk
オリヴィア・コールマンは私には年齢不詳と映る。実際は映画公開時、46歳だが、どんな役でもこなしてしまうので、役者に年齢は関係ないことを理解するには絶好の例となる女優である。『女王陛下のお気に入り』(2018年)で第91回アカデミー賞主演女優賞を受賞しているが、あの時の怪演は私の脳味噌に練りこまれている。今回、第93回アカデミー賞では助演女優賞でノミネートされている。もちろん、本作のアン役としてである。
第93回アカデミー賞で6部門(作品賞・主演男優賞・助演女優賞・脚色賞・編集賞・美術賞)にノミネートされている『ファーザー』だが、ここまでの演技を見せつけられては文句のつけようがない。じっくり究極のホラーを味わっていただきたい。
文:大倉眞一郎
『ファーザー』は2021年5月14日(金)より全国公開
『ファーザー』
ロンドンで独り暮らしを送る81歳のアンソニーは記憶が薄れ始めていたが、娘のアンが手配する介護人を拒否していた。そんな中、アンから新しい恋人とパリで暮らすと告げられショックを受ける。だが、それが事実なら、アンソニーの自宅に突然現れ、アンと結婚して10年以上になると語る、この見知らぬ男は誰だ? なぜ彼はここが自分とアンの家だと主張するのか? ひょっとして財産を奪う気か? そして、アンソニーのもう一人の娘、最愛のルーシーはどこに消えたのか? 現実と幻想の境界が崩れていく中、最後にアンソニーがたどり着いた〈真実〉とは――?
制作年: | 2020 |
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監督: | |
出演: |
2021年5月14日(金)より全国公開