純愛と怒りと
いきなり早川書房から本が送られてきた。
よくあることで、驚かなかったけど、私がラジオ・パーソナリティを務めているJ-WAVEにもたくさん本を送っていただくので、私の積読は半端ではない。
一生かけて償う、じゃなくて、読了できるかどうか危ぶまれるほどの非常事態で、多頭崩壊的多本崩壊をすでに起こしている。
明日私が死んでしまうようなことがあれば、家族同然の本は生きた家族に処分されるというこの悲劇的アイロニー。
死ねない。
そういうわけで、今度はどんな本をいただけたのかしら、と包みを開けば「ビール・ストリートの恋人たち」。
ああ、そういうことでしたか。試写には行く気まんまんだったけど、本が先に送られてきたのね。
試写前に読み始めてしまった。
純愛ものだった。
ひたすら恋人を愛し抜く若い黒人の男女。美しい流れの文章。
しかし、時代は1970年代前半。なんら悪意のない正しい行いが、いつの間にか罪にすり替えられてしまう。ちくしょー、ちくしょー、ちくしょー。怒りで頭から湯気が立つ。(私の場合、怒りでじゃないけど本当に湯気が立つから、よかったら見にきて)
実はこの状態は今も変わっていない。
ブライアン・スティーヴンソンが書いたルポルタージュ「黒い司法」には現在のアメリカにおける言葉を失うほどの司法による差別の実態が描かれている。
50年近くたってもかの国は何も変わっていない。
私は一昨年イランを旅したため、観光ビザではアメリカに入国できず、面倒な手続きが必要なので、誰が行くか、ボケ、と余裕をかましているが、私が行かないからといって黙っていられるものではない。
あの大統領もベネズエラの民主主義を守るため、人権保護のために武力介入も選択肢にあると偉そうにするが、自国の現状を振り返ってみてはどうか。
誰もがわかっていながら変えられない現実。
それは日本にもある。
おそらく世界中のどの国にもある。
まず、知って怒りませんか。
怒りからは何も生まれなくはない。
知らない方が幸せだ、なんてこともない。
サッカー観戦で、「ニッポン!ニッポン!」と絶叫することも悪いとは言わないけど、その愛する国を良くしたいと思ったら、怒りましょう。
アメリカの話が、日本のことになってしまった。
本と映画の蜜月
そんなことを思いながら、残り20ページくらいを読み残したまま、試写に行ってしまった私。
私が美しい、愛おしいと感じて頭に思い浮かべていた物語がスクリーンの上で、その10倍輝いている。
いきなり涙ぐんでしまった。
純愛はこう撮るのだ。
純愛と怒りを描くことで、狭い視野が一気に広がった。
世界を繋ぐ作品になった。
試写のあと、宣伝担当の方に「終わり方が小説と映画で違うんで、いかがでしたか」と聞かれてしまって、まだ読了していない私は焦った。どうして言っちゃうのよ。
どちらのラストがいいかは言えない。
しかしなあ、ああ、しかしなあ。
小説と映画の間には微妙な緊張感があるのがいい。
原作を完全にぶち壊されれば許せないが、映画でしかできない表現は見事だと褒める。
別物でありながら、リスペクトし合える関係であって欲しい。
全てがそうなっていないのがもどかしい。
原作者、ジェイムズ・ボールドウィンの作品はこれまでも数本映画化されているが、この作品を本人が観ることができたらなんと言っただろうか。
「いいんだ、あれで構わない」なのか、「撮り直せ」か。
想像しても意味がないが、そんなことにしばらく時間を使いたくなる。
さて、この作品の原題は“IF BEALE STREET COULD TALK”である。
しかし、作品の中にはこの通りは出てこない。
舞台はニューヨーク、ハーレムなのにビール・ストリートはメンフィスにあるからである。
メンフィスのビール・ストリートはブルース、ソウルミュージックで溢れている。
W.C.ハンディのブルース“Beale Street Blues”からボールドウィンは引っ張ってきたらしい。
行ってみたい。
B.B.キングのB.B.は“The Beale Street Blues Boy”の略だそうだ。
文:大倉眞一郎
『ビール・ストリートの恋人たち』は2019年2月22日(金)よりロードショー
『ビール・ストリートの恋人たち』
1970年代ニューヨーク。小さな諍いで白人警官の怒りを買った22歳のファニーは、無実の罪で入れられてしまった留置所で、幼いころから共に育った恋人・ティッシュから「赤ちゃんができた」と報告を受ける。二人の愛を守るため、家族と友人たちはファニーを助け出そうと奔走するが..。
制作年: | 2018 |
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監督: | |
出演: |