悪者を守る「加害者の人権」が大きなテーマの一つ
クリント・イーストウッド扮するハリー・キャラハン刑事が44マグナムをぶっ放す『ダーティハリー』は、いわずもがな刑事映画界の最高峰。その後の刑事映画にありとあらゆる影響を与え、もはや「基準」として君臨している一品だ。そんな伝説的作品で暴れまわる悪役・スコルピオも当然素晴らしく、今なお“映画に出てきたベスト悪役”には真っ先に名前が挙がるほどの印象を残している。
スコルピオは、サンフランシスコに突如現れた正体不明の連続無差別殺人鬼。登場早々、彼は真昼間からプールで泳ぐ女性を離れたビルからライフルでプシャッと射殺。その場にさらなる殺害予告とサンフランシスコ当局に10万ドルの要求をしたメモを残したことから、その存在が発覚する。
しかし市長は「んなもん払えるわけねーだろ!」と一蹴。それでイーストウッド扮するハリー・キャラハンが捜査を開始するわけだが、もちろんスコルピオはさらなる暴走を開始。殺害予告通りに10歳になる黒人少年の顔面を撃って射殺したり、教会の警戒に当たっていた警官を撃ち殺したり、14歳の女の子を強姦して生き埋めにし、ペンチで抜いた歯を警察に送りつけるという、こうして原稿にするのもキツい狂いっぷりを見せつけてくれる。
しかしスコルピオは中盤になって、ハリーの執念の追跡により捕まってしまう。……と思ったら、ハリーが逮捕時にミランダ警告(「お前には黙秘権がある」云々)を伝えなかった&マグナムで撃ち抜いた足をグリグリと拷問しちゃったせいで、すぐに釈放されるスコルピオ。これが実は本作のテーマともいうべきもので、「法で守られた事件加害者の人権」にブチ当るハリーなのであった……。
分かりやすく暗示される“神vs悪魔”の構図
スコルピオが犯行声明文を警察に送りつけたり、マスコミを巻き込んだ劇場型犯罪を繰り広げるあたりは、製作当時のサンフランシスコで騒がれていて今現在も未解決の「ゾディアック事件」がモデル。とはいえ、スコルピオは出自も動機も目的もわからないことだらけで、唯一わかるのはベトナム帰還兵ということと、ベルトのバックルがスマイルマークということから、恐らくヒッピーということだけ。大金を要求するが決して金目当ての犯行というわけでもなさそうだし、「歪んだ現代社会が生んだ悪」なんて安っぽさもない。とにかく人を殺すだけ。そこにプライドもこだわりも人間味もないので、たとえ子供だろうが平気で殺す。ただただ純粋な「悪」として描かれているのだ。
なので純粋なる悪のスコルピオはひたすら自由に、追うハリーは法に縛られひたすら不自由だ。この対立構造は言い換えれば悪魔と神の対決で、実際に劇中では教会や十字架など神にまつわる様々なモチーフが登場。「神は救い給う(JESUS SAVES)」というネオンサインの下にいるハリーに向かってスコルピオがマシンガンを撃ちまくったりするシーンでわかりやすく提示している。
ちなみにこうした悪と正義の描き方は、クリストファー・ノーラン監督のバットマン第二作目『ダークナイト』も同様だ。ヒース・レジャー扮するジョーカーはスコルピオをアップデートしてさらにわかりやすく「悪」そのものを体現する存在として描かれ、バットマンはがんじがらめの正義に苦悩していた。
映画のラスト、ハリーに銃を突きつけられたスコルピオはハリーの挑発にまんまと乗って、手前に転がっている銃を掴む。その瞬間、ハリーのマグナムは火を噴くが、それよりも前にスコルピオは一瞬「キャハハ」と声をあげて笑う。観客は最期の最期まで果敢にも神に挑戦する悪にすがすがしさを感じ、同時にうすら寒気も覚える。今尚語り継がれる徹底した「悪」の造形が狂い咲いた瞬間だ。
「どうして僕をスコルピオ役にキャスティングしたんだ!?」
そんな映画史に残る最狂殺人鬼スコルピオを演じたのは、それまで映画に出演したことがなかったアンディ・ロビンソン。彼が出演していた演劇をイーストウッドが見ていたことから、イーストウッドの推薦で出演が決定したとか。しかしアンディ・ロビンソンは脚本を読んで、スコルピオのあまりの「悪」っぷりにどう演じればいいのか皆目見当がつかず、ドン・シーゲル監督に「どうして僕をキャスティングしたんですか!?」と迫ったという。
そんなエピソードを微塵も感じさせないほどの神がかり的な熱演を見せてくれたアンディ・ロビンソン。映画公開後には自宅に殺害予告電話が来るほどの反響で、同じような役柄の仕事が殺到したりとアンディ・ロビンソン的には散々な役だったようだ。しかし、映画の公開から50年近く経つのにいまだ語り草となっている悪役スコルピオ、その禍々しさはいまも色褪せることはない。
文:市川力夫