静かに怒り続けていたケン・ローチ監督が爆発した『私は、ダニエル・ブレイク』

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ライター:大倉眞一郎
静かに怒り続けていたケン・ローチ監督が爆発した『私は、ダニエル・ブレイク』
『わたしは、ダニエル・ブレイク』© Sixteen Tyne Limited, Why Not Productions, Wild Bunch, Les Films du Fleuve,British Broadcasting Corporation, France 2 Cinéma and The British Film Institute 2016
常に弱者の立場に立ち、社会に問題提起する作品をつくり続けるケン・ローチ。監督引退宣言を撤回し、イギリスの貧困を描いた本作を、自身の目でイギリスのリアルを見てきた大倉眞一郎が語る。

ケン・ローチの笑顔

『わたしは、ダニエル・ブレイク』© Sixteen Tyne Limited, Why Not Productions, Wild Bunch, Les Films du Fleuve,British Broadcasting Corporation, France 2 Cinéma and The British Film Institute 2016

ケン・ローチは日本で誰でも知っている映画監督である、とは言い難いが、ケン・ローチの作品は必ず観る人が大勢いる。でも大きなシネマ・コンプレックスで長期上映になることはまずない。
カンヌ映画祭で2度パルム・ドールを受賞していても関係ない。
受賞作『麦の穂をゆらす風』『私は、ダニエル・ブレイク』をどのくらいの人が観ただろう。
残念だけど、それが現実だ。

ケン・ローチはずっと怒っていた。
怒っていながら、怒りに任せて映画を撮ることはなかった。
顔を見ればわかる。
安心させてくれる顔つきとでも言うのだろうか、大事なことを伝えるための話法や表情を自然に身につけている。
優しく、ユーモアを大切にし、作品を楽しませてくれながら、ずっと私たちの社会はこれでいいのかと問い続けていた。多くの作品の舞台はイギリス、アイルランドだが、常に弱者の視線で世界を見ていて、カンヌでの2度のパルム・ドール受賞からもわかる通り、世界中の人々がケン・ローチと視線を合わせた。
内容が内容だけにハッピーエンドでは終わらないことが多かったが、ケン・ローチは笑顔を絶やさなかった。それは半ば諦めの境地に似たものだったのかもしれない。
そう解釈すれば悲しい笑顔だ。

2014年、『ジミー、野を駆ける伝説』を最後に引退を表明していたが、嘘だった。
何人か他にも嘘をつく監督がいるが、ケン・ローチの引退撤回が一番嬉しかった。
しかし、2016年に『私は、ダニエル・ブレイク』を公開しているのだから、本当に引退するつもりがあったのか、と疑う私のような人間もいるが、かなり体調が悪かったのは事実らしいので、どうしても撮らねばならないという理由があったということである。
では、その理由とは何か。
本気で怒ったのである。

イギリスという国

『わたしは、ダニエル・ブレイク』© Sixteen Tyne Limited, Why Not Productions, Wild Bunch, Les Films du Fleuve,British Broadcasting Corporation, France 2 Cinéma and The British Film Institute 2016

私は仕事で7年間ロンドンに住んでいたが、赴任当初、不思議なものを見た。
イギリスには勝手に建物を壊してはいけない、という法律があるので、街並みは大昔とほとんど変わっていない。
ただ、水道、電気等のインフラに大きな問題があるので、住宅、オフィスを購入すると外側の見た目だけは残して、中は総入れ替えに近いくらいリファービッシュを行う。ボロボロのビルのつもりでドアを開けてびっくり、が日常のこと。
テムズ川沿い東方面のかつて何もなかったところには、妙なガラス張りのビルが並んでいたりするが、あれは例外。
住宅地はほぼ2階建ての煉瓦造り、オフィス街で多少背の高いものがあっても、せいぜい7、8階程度か。

ところがオフィス街の外、住宅地に突如高層タワーマンションが並んでいるのを見たときに、ロンドンも変わるんだ、と、どえらい勘違いをした。
「あれはカウンシル・フラット(低所得者向けの公共住宅)」と教えられてもよくわからない。
第二次大戦後に建てられた低所得者、失業者、生活保護対象者に低額の家賃で貸し出される住宅だと教えられて、高層マンションに貧困層が住める国、という「不思議」を感じたのである。
しかし、その佇まいをよく見てみると、やや荒れた印象があり、カウンシル・フラットに住んでいる、ということを隠したがっている人もいることがわかった。

イギリスは富裕層向けの住宅地、貧困層が多く住む地域に分かれている。
ところがロンドン中心部では、ブロック一つ、あるいは道一つで富裕層地区、貧困層地区という具合に分かれていたりもする。高級ベンツで出勤する人間を横目で見ながらバスを待つ人がいる。

さらに私がいた頃(1990年〜1997年)とは状況が変わり、この10年以上続く異常な住宅価格の高騰により、私営化されてしまったカウンシル・フラットの価格も高騰、貧困層がさらに不便な場所へと移動を余儀なくされていると聞く。

“揺り籠から墓場まで”がイギリスを称えるときに使われていた言葉で、出産も医療も建前上は現在も無料ということになっているが、医療制度は完全に破綻しており、深刻な病気になった場合、貧困層は手術を待っている間に死ぬ、と言われている。
私的保険に入っていないとまともな医療は受けられないと思っていたほうがいい。
一度A型肝炎で入院した私は、送られてくる医療費の高さに文字通り肝を冷やした。私的保険に入っていないと、とても払える金額ではなかった。

ケン・ローチは本気で怒った。
それで『私は、ダニエル・ブレイク』を撮った。
この国は何なのだ。誰のための国だ。
老人を置き去りにし、シングル・マザーの家族に手を差し出すこともなく、逆に突き放す。

日本でも同じことが、いや、世界中で同じことが起きているので、私も日頃から怒っている。
でもその怒りを社会を変える力にできない。
ケン・ローチも映画にできることは限界があると認めているが、声を上げず、作品を撮らず、黙ったままではいられない。

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© Sixteen Tyne Limited, Why Not Productions, Wild Bunch, Les Films du Fleuve,British Broadcasting Corporation, France 2 Cinéma and The British Film Institute 2016

サッチャーVS労働者

さて、ここで余計なことかもしれないが、簡単にマーガレット・サッチャー以降に起こったことを書き留めておきたい。
新自由主義を奉じる“鉄の女”は国営企業を次々と民営化した。
富める者は法人税の大幅引き下げによって更に富んだが、貧困層は職を失い、失業率は記録的な高さ、11%超まで上がり、ロンドンはもとより、地方都市は荒廃した。
私がいた90年代、リバプールに行き、窓ガラスが割れたまま放置された工場跡地を見て、異様なムードに怯んだこともある。

炭鉱も例外ではなく、民営化された炭鉱は廃坑へと追いまれた。
その過程で炭鉱労働者は職を失い、行き場を失い、金も夢も消えた。
唯一私たちが得たものは『ブラス!』『リトル・ダンサー』、炭鉱でなく鉄工所の町の話だが、『フル・モンティ』のような名作である。
だが、これでサッチャーを礼賛するわけにはいかない。

亡くなった人を鞭打つようなことは言いたくないが、労働者階級出身で今はある程度の財を成した私の友人は2013年にサッチャーが亡くなった時、「今も彼女を許せない」と心情を書いて送りつけてきた。
毀誉褒貶の激しい女性であったからこそ『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』で描かれるような存在となったが、何とも言えぬ気分になることがある。

サッチャー後、メージャー、労働党のブレアと政権は変わったが、サッチャーの残したものは引き継がれ、現在に至っている。
ケン・ローチがサッチャーについてどう思っているのかは聞くまでもないが、サッチャーがケン・ローチの作品を見たことがあったかどうかは気になるところである。

文:大倉眞一郎

【BANGER!!!×MoviePlus】第72回カンヌ映画祭特集

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『わたしは、ダニエル・ブレイク』

イギリス、そして世界中で拡大しつつある格差や貧困にあえぐ人々を目の当たりにし、今どうしても伝えたい物語として引退を撤回してまで制作された本作。人としての尊厳を踏みにじられ貧困に苦しみながらも、助け合い生きていこうとするダニエルとある親子との心の交流を描く。

制作年: 2016
監督:
キャスト:
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