ドキュメンタリー『ヒポクラテスの盲点』が再び劇場に
賛成か反対かではなく、「数えなかったもの」を数え直すためのドキュメンタリーとして観る――
新型コロナウイルスのワクチンをめぐる議論は、日本ではほとんど対話の形をとらなかった。打つべきだと言う側と、危険だと言う側が、互いを「反ワク」「御用学者」と呼び合い、それぞれの陣地に引きこもった。そのあいだに落ちたのが、接種後に体調を崩した人、家族を亡くした人たちである。彼らは陰謀論者でも活動家でもなく、多くは国の呼びかけに応じて接種会場に並んだ、ごく普通の市民だった。
2025年10月に公開されたドキュメンタリー映画『ヒポクラテスの盲点』が、追加取材を加えたアップデート版として2026年11月に再び劇場にかかる。テレビマンユニオンのディレクター大西隼が監督し、後遺症を訴える患者、遺族、症例を集める医師、そして当時ワクチンを推進した立場の人々にも取材したとされる作品だ。1年を経ての再公開は、この問題が終わっていないことの証拠でもある。
本稿では、映画の主張をそのまま受け入れることも、頭ごなしに退けることもせず、この作品が指さしている社会の構造を考えたい。
©「ヒポクラテスの盲点」製作委員会
9000件という数字の読み方
まず、確認できる事実から始める。予防接種で健康被害が生じた場合に医療費などを給付する「予防接種健康被害救済制度」で、新型コロナワクチンに関する認定件数は2025年3月時点で9031件にのぼる。申請の受理は1万3195件、否認は3528件。認定のうち、死亡一時金または葬祭料が認められたものは998件だった(自治体が公表する国の集計による)。その後も審査は続いている。
この規模は異例である。制度が始まった1977年から新型コロナ以前までの約45年間、すべてのワクチンを合わせた認定件数は3500件ほどだったとされる。それを一つのワクチンが、数年で大きく上回った。
ただし、この数字には二つの注釈が要る。ひとつは分母だ。新型コロナワクチンは国内で延べ4億回以上接種された。接種回数が桁違いに多ければ、頻度の低い有害事象でも絶対数は大きくなる。もうひとつは、救済制度の認定基準である。この制度は迅速な救済を目的とし、厳密な医学的因果関係までは求めず、「接種によって起きたことを否定できない」場合も対象にする。認定は、因果関係の科学的証明と同じではない。
一方で、医療機関などからの「副反応疑い報告」を専門家が評価する別の仕組みでは、接種後の死亡報告は2000件を超えるが、その大半は「情報不足等により因果関係が評価できない」と分類され、因果関係が否定できないとされたのはごくわずかにとどまる。
同じ国の、同じワクチンについて、片方の制度は1000件近い死亡に給付を認め、もう片方は「評価できない」と言い続ける。制度の目的が違うのだから矛盾ではない、というのが行政の説明だ。しかし遺族の側から見れば、国は補償はするが原因は認めない、と言っているに等しい。本作のタイトルが言う「盲点」は、このねじれのなかにある。
| 項目 | 予防接種健康被害救済制度 | 副反応疑い報告制度 |
|---|---|---|
| 目的 | 迅速な救済 | 専門家による評価 |
| 判定基準 | 厳密な医学的因果関係までは求めず、「接種によって起きたことを否定できない」場合も対象にする | 医学的・科学的因果関係 |
| 死亡例の扱い | 998件に死亡一時金または葬祭料の給付を認定 | 大半は「情報不足等により因果関係が評価できない」と分類される |
「評価不能」は誰のための言葉か
「因果関係は評価できない」という言い回しは、科学的には誠実な表現である。個別の症例で、ある死がワクチンによるものかどうかを確定するのは実際に難しい。解剖が行われていない例も多く、持病や年齢といった要因が重なる。
しかし、行政の言葉としての「評価不能」は、別の働きをする。それは「わからない」を「問題は確認されていない」に翻訳する装置になる。評価に必要な情報が足りないのなら、足りる仕組みをつくるのが次の一手のはずだ。
接種記録と死亡・診療データを突き合わせて、接種した集団としていない集団の発症率を比べる。そうした大規模なデータ連結による検証は、海外では早くから行われたが、日本では自治体ごとに接種記録が分散し、全国規模での解析体制の整備は遅れた。
調べる手段を持たないまま「わからない」と言い続けることは、中立ではない。本作が医師たちの症例収集の営みを追っているのは、公的な仕組みが拾わなかったものを、現場が手作業で拾い直しているという構図を見せるためだろう。
©「ヒポクラテスの盲点」製作委員会
なぜ社会は黙ったのか
この問題が長く語られにくかった理由を、単に「政府とメディアが隠した」とまとめるのは粗い。もっと日常的な心理が働いていた。
第一に、同調の記憶である。2021年、接種は「思いやり」として語られた。職場で、学校で、帰省の条件として、打つことは個人の医療判断というより社会的な通行証になった。その空気のなかで接種を勧めた人、勧められて打った人が、後になって害の可能性を直視するのは苦しい。自分の選択を正しかったと思いたい心の働きが、被害の訴えから目をそらさせる。
第二に、報道の萎縮である。ワクチンの不安を報じれば接種率を下げ、結果として人命を危険にさらすという批判が、報道機関には強くかかった。2013年のHPVワクチン報道が接種率の急落を招いたとして批判された経験も尾を引いている。慎重さは必要だった。だが、慎重であることと取材しないことは違う。被害を訴える人の声が主にSNSと一部の集会でしか流通しなかったことで、その声は極端な主張と同じ棚に並べられてしまった。
第三に、被害を訴えること自体への社会的な罰である。体調不良を語れば「反ワク」と呼ばれる。医療機関で接種との関係を口にすると相手にされなかった、という訴えは各地の患者会が繰り返し報告している。病気そのものに加えて、信じてもらえないという二次的な傷がある。
©「ヒポクラテスの盲点」製作委員会
「診断がつかない」という二重の苦しみ
接種後に長引く不調を訴える人の症状は、強い倦怠感、頭痛、動悸、しびれ、思考力の低下など多岐にわたる。厄介なのは、一般的な血液検査や画像検査では異常が見つからない例が多いことだ。新型コロナウイルス感染後の後遺症とも症状が重なり、どちらによるものか、あるいは別の原因なのかを見分けるのは、専門医にとっても容易ではないとされる。
検査で異常が出ない患者に、医療はしばしば冷たい。「気のせい」「ストレス」「年齢のせい」と言われ、診療科をたらい回しにされる。仕事を続けられず、収入を失う人もいる。学校に通えなくなった若者もいる。国は接種後の症状を診る医療機関の窓口整備を自治体に求め、研究班による実態調査も行われてきたが、診断基準も治療法も確立していないのが現状である。
原因がはっきりしない健康被害が、長く「ないもの」として扱われた例を、日本は何度も経験している。水俣病では、原因物質の特定と公式な認定までに長い歳月がかかり、その間に被害は広がった。整腸剤による薬害スモンは、当初は感染症だと疑われ、患者は差別にさらされた。もちろん、過去に薬害があったからといって、今回の訴えのすべてがワクチンによるものだということにはならない。歴史から引き出せる教訓は、もっと手前にある。
原因の究明には時間がかかる。その時間を、患者は生きなければならない。因果関係の決着を待たずに、目の前の症状を診療し、生活を支える仕組みを先に動かすこと。それが、過去の公害や薬害が残した最低限の知恵である。
本作が、推進した側の立場の人物にも取材していると伝えられる点は注目に値する。当時の判断を支えた根拠は何だったのか。不確実な情報のなかで、何を優先したのか。糾弾の対象としてではなく、判断の当事者として語る言葉が記録されているなら、それは対立を越えるための貴重な素材になる。
公衆衛生の倫理が抱える古い問い
忘れてはならないのは、新型コロナワクチンが重症化や死亡を減らしたことを示す研究が、国内外で多数積み重ねられていることだ。とくに高齢者にとって、接種の利益が危険を上回ったという評価は、現時点の医学界の主流である。心筋炎など一部の副反応は公式に認められ、添付文書にも記載されている。本作が「科学とデータに基づいて」と掲げる以上、観客もまた、利益を示すデータと害を示すデータの両方を視野に入れる必要がある。
そのうえで残るのは、集団の利益のために個人が負った不利益を、社会はどう引き受けるのかという問いである。多数が助かったという事実は、少数の被害を帳消しにしない。むしろ、多数が助かったからこそ、その裏で傷ついた人への補償と究明は手厚くなければ釣り合わない。予防接種は、個人が社会のために危険の一部を引き受ける行為だからだ。
かつて予防接種禍をめぐる集団訴訟で、国の責任が認められた歴史がある。救済制度はその反省から生まれた。にもかかわらず、申請に必要な書類を患者自身が医療機関を回って集めなければならず、審査に1年以上かかる例も珍しくないという運用が続いた。制度はあるが、たどり着けない。これは新型コロナに固有の問題ではなく、次の感染症でもそのまま繰り返される設計上の欠陥である。
©「ヒポクラテスの盲点」製作委員会