感動の物語として泣く前に、監督の苛立ちの正体を考える――
公表されているあらすじの中に、映画『4アウト ─もう一度、プレイボール─』の核心を示す一節がある。
東京で初めて結成された身体障がい者野球チームが、全国大会に出場して惨敗する。選手たちは口では「勝ちたい」と言う。しかし、負けても悔しがる様子を見せない。それに失望した監督は、チームを降りると宣言する。
なぜ彼らは悔しがらないのか。この問いに、健常者である監督はすぐには答えられない。観客の多くも答えられないだろう。そして、その答えにたどり着く過程こそが、本作を単なるスポーツ感動作から引き離す可能性を持っている。
相葉雅紀が演じる「実話」の持つ重み
本作は、ノンフィクション作家・平山讓が取材した実在のチーム「東京ブルーサンダース」の創設をもとにしている。主人公の矢上雄一(相葉雅紀)は元社会人野球の選手。年齢を理由に戦力外を通告され、身体障がい者スポーツセンターに再就職する。そこで聴覚に障がいのある泉(松本利夫)から、野球チームの監督を頼まれる。戸惑いながら引き受けた矢上は、同僚(黒島結菜)と選手集めに走り、チームは全国大会へ挑む。
身体障がい者野球は、パラリンピックの競技ではない。そのため一般にはあまり知られていないが、国内では1990年代から全国組織が活動し、春と秋に全国大会が開かれてきた。片腕の選手がグラブで捕球し、素早くグラブを外して同じ手で送球する。下肢に障がいのある打者には、打った後に走る代走が認められる。障がいに合わせてルールを調整しつつ、真剣に勝敗を争う。関係者はこれを「もうひとつの甲子園」と呼んできた。
題名の「4アウト」が何を意味するのかは、原作と本編に譲る。ただ、野球は3アウトで攻守が替わる。4つめのアウトとは、終わったはずの後にもう一度与えられる機会のことだと読むのが自然だろう。
悔しさは、期待された者だけが持てる
冒頭の問いに戻る。なぜ選手たちは悔しがらなかったのか。
悔しさとは、「もっとできたはずだ」という感覚である。その感覚を持つには、自分にはできるはずだと信じていなければならない。そして、その信念は、誰かに期待され、挑戦し、ときに成功した経験の積み重ねからしか生まれない。
障がいのある人の多くは、子どもの頃から、期待されない経験を重ねている。体育は見学。危ないからやめておきなさい。無理しなくていいよ。周囲の大人は善意でそう言う。しかし、その善意は「あなたにはできない」というメッセージを、繰り返し、やさしく刷り込む。心理学が学習性無力感と呼ぶ状態に近い。何をしても結果が変わらないと学んだ人は、やがて試みること自体をやめる。
中途障がいの場合は、別の喪失がある。事故や病気で身体の一部の機能を失った人は、「できていた自分」を知っている。野球が好きだった少年が、片腕を失う。もう二度とグラウンドには立てないと思う。その断念を何年もかけて自分に言い聞かせてきた人にとって、再びバットを握ることは喜びであると同時に、封じ込めてきた痛みを掘り返すことでもある。勝ちたいと口にすることと、負けて本気で悔しがることのあいだには、深い溝がある。悔しがるためには、もう一度本気で望まなければならない。望んで、また失うことが怖い。
監督の矢上が感じた苛立ちは、だから的外れであり、同時に的を射ている。彼は選手たちを「勝負する者」として見ている。その目線は、彼らが長く向けられてこなかったものだ。だが彼は、なぜ彼らがそこに立てないのかを、まだ知らない。
戦力外の男と、障がいのある選手たち
本作の設定で巧みなのは、矢上自身が「戦力外」を告げられた人間であることだ。
年齢を理由に、必要ないと言われる。それまでの人生を賭けてきたものから、切り離される。社会人野球の選手にとって、戦力外通告は職業上の死に近い。矢上が身体障がい者スポーツセンターに来たのは、志を持ってではなく、ほかに行き場がなかったからだ。
ここに、障がいのある人と健常者をつなぐ細い糸がある。能力で人の価値を測る社会では、誰もがいつか「戦力外」になる。加齢、病気、事故、リストラ。障がいとは、一部の特別な人の属性ではなく、すべての人の未来に含まれている可能性である。高齢化が進む日本では、とくにそうだ。
とはいえ、この対比には危うさもある。健常者の挫折と、障がいのある人が社会の中で経験してきた排除を、同じ重さで並べることはできない。矢上の「再生」のために、障がいのある選手たちが脇役として配置されるなら、それは古い型の物語の繰り返しになる。傷ついた健常者が、障がい者との出会いによって癒やされ、成長する。その型の中で、障がい者は主人公の成長のための道具にされる。
「感動」をめぐる警戒
オーストラリアのコメディアンで障がい当事者だったステラ・ヤングは、障がい者を健常者の感動や励ましの材料として消費する表現を「感動ポルノ」と呼んで批判した。障がいがあるのに頑張っている。その姿に勇気をもらった。そう語るとき、障がいのある人は一人の人間ではなく、見る側の気分をよくするための対象になっている。
日本でも、毎年夏に放送されるチャリティー番組をめぐって、同様の議論が繰り返されてきた。本作は、国民的な人気を持つ相葉雅紀を主演に据えた、広い観客に向けた作品である。泣ける映画として宣伝されることは避けがたい。
そのうえで、本作には注目すべき点がある。公表された情報によれば、多くの障がいのある人がオーディションで選ばれ、選手役として出演している。障がいのある役を健常の俳優が演じることへの批判は、近年、世界的に高まってきた。聴覚障がいのある俳優が出演した『コーダ あいのうた』がアカデミー賞作品賞を受けたのは2022年のことだ。当事者が自分の身体で、自分のプレーを見せる。それは演技の真実味の問題であるだけでなく、誰が物語を語る権利を持つのかという問題でもある。
片腕で捕って投げる一連の動作は、健常の俳優が真似ても再現できない。何年もかけて身につけた、その人だけの技術である。スクリーンに映るのが「かわいそうな障がい者」ではなく、「うまい選手」であるかどうか。本作の成否は、そこで決まる。
する場所がない、という現実
障がい者スポーツをめぐる数字を確認しておく。
スポーツ庁の調査では、成人の障がい者のうち週に1回以上スポーツをしている人は3割程度で、障がいのない成人の5割強を大きく下回る。理由として多く挙がるのは、体力や障がいの程度のほか、一緒にする仲間がいない、場所がない、指導者がいないといった環境の問題である。
2021年の東京パラリンピックは、障がい者スポーツへの関心を一時的に高めた。しかし、トップ選手の活躍と、地域で障がいのある人が日常的に体を動かせる環境とは、別の話だ。一般の体育館やグラウンドで、車いすでの利用を断られた、床が傷つくと言われた、という経験は珍しくない。障がい者専用のスポーツセンターは数が限られ、地方ではほとんどない。
2024年4月には、改正障がい者差別解消法が施行され、障がいのある人への合理的配慮の提供が、民間事業者にも義務づけられた。スポーツ施設やクラブも例外ではない。だが、義務になったことを知らない事業者も多い。
本作の舞台となるスポーツセンターは、障がいのある人にとって数少ない「してもいい場所」である。そこでチームをつくることは、スポーツの話である以前に、居場所の話なのだ。週末にユニフォームを着て集まる仲間がいる。試合に負けて、帰りに飯を食う。そういう当たり前のことが、多くの人にとって当たり前ではなかった。
「監督をやってくれ」と頼んだのは誰か
見落としてはならないのは、このチームの始まり方である。
あらすじによれば、矢上に監督を頼んだのは、聴覚に障がいのある泉だった。つまり、野球をやりたいと言い出したのは、障がいのある当事者の側である。健常者が「障がい者にも野球を」と考えてチームをつくったのではない。やりたい人がいて、その人が、技術を持つ人間に協力を求めた。
この順序は決定的に重要だ。障がい者運動は、「私たちのことを、私たち抜きで決めないで」という言葉を掲げてきた。支援する側が良かれと思って用意したものが、本人の望みとずれていることは多い。本人が望み、本人が動き、足りない部分を周囲が補う。その形であってはじめて、活動は当事者のものになる。
もうひとつ、身体障がい者野球のチームには、種類の違う障がいのある選手が集まる。腕や脚の欠損、まひ、聴覚障がい。聞こえない選手には、声の指示が届かない。片脚の選手は、打てても走れない。それぞれの「できること」と「できないこと」が違う。だからポジションや役割を工夫し、互いの不足を埋め合う。聞こえない選手へのサインを全員で覚える。これは、健常者のチームが当然の前提としている「全員が同じようにできる」という想定を、根本から問い直す作業である。
違いを前提にしたチームづくりは、手間がかかる。しかし、そこで生まれる連携は、同質な集団の連携よりも深い。企業が多様性の推進を掲げるとき、参考になるのは、こうした現場の知恵のほうだろう。
国民的アイドルが「戦力外の男」を演じる
主演の相葉雅紀についても触れておきたい。
彼が所属したグループ「嵐」は、2026年5月に活動を終えた。四半世紀にわたって日本の芸能界の中心にいたグループである。本作は、その後に公開される主演映画ということになる。年齢を理由に第一線を退いた男が、新しい場所で自分の役割を見つけ直す。役柄と演じ手の現在地が重なって見えるのは、偶然ではないかもしれない。
相葉は、長年にわたって動物番組や野球番組に出演し、世代を問わず親しまれてきた。その彼が主演することで、本作は、ふだん障がい者スポーツに関心を持たない観客に届く。これは大きな意味を持つ。社会的な主題を扱う映画は、もともと関心のある人にしか観られないという壁を抱えている。その壁を越えられるのは、主題ではなく、人である。
ただし、それは諸刃の剣でもある。観客の視線が主演俳優に集まるほど、障がいのある選手たちは背景に退く。宣伝で前面に出るのは誰か。インタビューを受けるのは誰か。オーディションで選ばれた当事者の出演者たちが、公開後も一人ひとり名前のある俳優として扱われるかどうか。映画の外側での扱いも含めて、この作品の姿勢は問われることになる。
「プレイボール」の声がかかるのを待っている人たち
鑑賞にあたって、三つの視点を持っておきたい。
ひとつめは、涙の中身を確かめること。泣くこと自体は悪くない。だが、「障がいがあるのに頑張っていて偉い」と感じたのか、「あの選手の、あの一球が見事だった」と感じたのか。前者は相手を下に見る感動であり、後者は対等な敬意である。上映中に自分がどちらで泣いているのかを、少しだけ意識してみてほしい。
ふたつめは、矢上の変化を追うこと。彼が選手たちに「教える」側から、彼らに「教えられる」側へ、そしてそのどちらでもない、ただのチームの一員へと変わっていくのかどうか。健常者が障がい者を引っ張り上げる物語なのか、互いが互いを変える物語なのか。その違いは決定的である。
みっつめは、劇場を出た後の行動だ。身体障がい者野球の大会は、各地で実際に開かれている。観戦は無料のことが多い。スクリーンの中で感動した人のうち、何人が実際の球場に足を運ぶだろうか。地域のチームは、選手だけでなく、練習を手伝う人や審判、送迎を担う人を常に必要としている。
もう一度、プレイボール。その声がかかるのを待っている人は、障がいのある人だけではない。年齢や病気や失敗で、一度グラウンドを去ったすべての人に、4つめのアウトまで試合を続ける権利がある。本作がそこまで届く映画であることを期待したい。
【作品情報】
『4アウト もう一度、プレイボール』 2026年11月6日公開/監督:稲垣壮洋/原作:平山讓『4アウト ある障がい者野球チームの挑戦』/脚本:平山讓、稲垣壮洋/出演:相葉雅紀、黒島結菜、松本利夫、前田亜季、斉藤由貴、佐々木蔵之介ほか/配給:S・D・P
公式サイト
※本稿は公開前の時点で、公表されている作品資料、原作に関する公開情報、公的統計に関する公開情報をもとに執筆した。本編の内容に関する記述は公表されたあらすじの範囲にとどめている。