あなたが観たい映画・ドラマを一発的中※ 会員登録が必要です

気分(複数選択可)
年代(複数選択可)
作品タイプ(複数選択可)
  • BANGER!!! トップ
  • >
  • 新着ニュース
  • >
  • 事件は終わるが、人生は続く――映画『存在のすべてを』が問う「報じる側の30年」と、子どもを育てるのは誰かという問い

事件は終わるが、人生は続く――映画『存在のすべてを』が問う「報じる側の30年」と、子どもを育てるのは誰かという問い

事件は終わるが、人生は続く――映画『存在のすべてを』が問う「報じる側の30年」と、子どもを育てるのは誰かという問い
©︎2027「存在のすべてを」製作委員会 ©︎塩田武士/朝日新聞出版

未解決誘拐事件のミステリーを、消費される「真相」ではなく、見つめ続ける倫理の物語として観る――

事件報道には賞味期限がある。発生直後は記者が現場に殺到し、被害者の家の前に脚立が並ぶ。犯人が捕まれば、あるいは捕まらないまま数か月が過ぎれば、記者たちは次の現場へ移る。しかし取材された人々は、その後も同じ場所で暮らし続ける。事件が人生に落とした影は、報道が終わってからのほうが長い。

塩田武士の小説『存在のすべてを』は、その「後」を描いた作品である。2023年に刊行され、翌年の本屋大賞で3位に入った。元新聞記者の作家が、未解決の誘拐事件を30年にわたって追う記者を主人公に据え、報じることの意味を自らに問い直した長編だ。これを、『64―ロクヨン―』『ラーゲリより愛を込めて』の瀬々敬久監督が、西島秀俊と広瀬すずを迎えて映画化する。

©︎2027「存在のすべてを」製作委員会 ©︎塩田武士/朝日新聞出版

物語の骨格

公表されている情報の範囲で、設定を確認しておく。

1991年、神奈川県で二人の子どもが同時に誘拐される。「二児同時誘拐事件」と呼ばれたこの事件は、警察の失態をともなって未解決のまま時効を迎えた。新聞記者の門田次郎(西島秀俊)は、この事件を30年にわたって追い続ける。広瀬すずが演じる土屋里穂は、被害者だった少年の同級生である。門田と旧知の刑事を仲村トオル、被害児童の祖父を奥田瑛二が演じ、志尊淳も重要な役どころで出演する。

原作では、門田は発生当時に事件を取材しており、30年後、世話になった刑事の死をきっかけに再び動き出す。誘拐された幼い男児が、長い空白を経て家族のもとに戻ってくる。その空白の期間に何があったのかを、彼は語らない。やがて門田の取材は、写実絵画の世界へとつながっていく。

これ以上は、作品の核心に触れるので書かない。ただ、この物語がよくある「真犯人は誰か」の謎解きではないことは言っておきたい。問われているのは、空白の時間に少年が誰と、どのように生きていたのかである。

©︎2027「存在のすべてを」製作委員会 ©︎塩田武士/朝日新聞出版

「空白」を埋めたがる社会

未解決事件は、人を引きつける。動画サイトには未解決事件を扱うチャンネルがあふれ、SNSでは素人の推理が飛び交う。「真相」と銘打った記事は読まれる。そこにあるのは、わからないものをわからないままにしておけない、という欲求だ。

その欲求は、しばしば当事者を傷つける。事件の被害者や家族は、何年経っても「あの事件の人」として見られる。ネット上には当時の報道が残り続け、名前を検索すれば過去が出てくる。成長した被害児童が、自分の人生を自分のものとして生きようとするとき、世間の好奇心は第二の加害になる。

原作で、門田が向き合うのは、まさにこの葛藤である。真実を明らかにすることは記者の仕事だ。だが、明らかにすることで、ようやく静かに暮らしている人の生活を壊すかもしれない。知る権利と、そっとしておかれる権利。その天秤を、記者は一人で持たなければならない。

塩田武士は、グリコ・森永事件を題材にした『罪の声』でも、犯罪に巻き込まれた子どものその後を描いた。脅迫テープに声を使われた子どもが、大人になってそれを知る。事件の「関係者」という立場を、自分で選んだわけでもなく背負わされた人々。塩田の関心は一貫して、犯人ではなく、事件の周縁に取り残された人に向いている。

新聞記者という職業の黄昏

この物語が30年という時間を必要としたことには、もうひとつの意味がある。主人公が新聞記者であることだ。

1991年、新聞は情報の王だった。全国紙は数百万から一千万近い部数を誇り、事件記者は警察幹部の自宅を夜ごと訪ね、他社より1分でも早く書くことに命を削った。誘拐事件では、被害者の安全のために報道各社が取材と報道を自粛する報道協定が結ばれる。協定が解除された瞬間、溜め込んだ原稿が一斉に放たれる。その興奮の中に、若き日の門田はいた。

30年後、新聞の発行部数は半分以下に落ちた。地方の取材拠点は縮小され、一つの事件を何年も追い続ける余裕は、どの社からも失われつつある。速報はネットに、解説は動画に、暴露はSNSに持っていかれた。

では、記者の仕事に何が残るのか。原作が示す答えは、時間をかけることだ。誰もが忘れた事件を、忘れなかった一人が追い続ける。関係者を一人ずつ訪ね、信頼を得るまで待ち、裏を取り、書くべきか迷う。効率とは正反対のその営みだけが、表面をなぞる情報の洪水の中で、人間の存在に触れることができる。

これは郷愁ではない。むしろ、調査報道を誰が支えるのかという、現在進行形の問いである。新聞社の経営が傾けば、最初に削られるのは、すぐに記事にならない長期取材だ。その損失は、目に見えにくい形で社会に回ってくる。

©︎2027「存在のすべてを」製作委員会 ©︎塩田武士/朝日新聞出版

警察の失態と、組織が隠すもの

特報映像には「警察大失態」という文字が映るという。瀬々監督は『64―ロクヨン―』で、昭和の終わりに起きた誘拐事件と、それを隠蔽しようとする警察組織を描いた。本作でも、捜査の失敗と、その後の組織の振る舞いが重要な要素になるだろう。

誘拐事件の捜査は、時間との闘いであり、同時に組織間の連携の闘いでもある。二つの事件が同時に起きれば、人員は分散し、指揮系統は混乱する。現場の判断ミスは起こりうる。問題は、失敗そのものより、失敗の後である。誰が責任を取り、何が記録され、何が伏せられたのか。

組織は失敗を個人に帰し、個人は沈黙することで組織を守る。その沈黙が、30年間、被害者家族から「なぜ」への答えを奪い続ける。殺人など一部の重大犯罪の公訴時効は2010年に廃止されたが、それ以前に時効を迎えた事件は戻らない。法的に終わった事件について、それでも説明を求め続ける人がいる。時効は捜査を終わらせるが、問いは終わらせない。

子どもを育てるのは誰か

本作のもっとも深い層にあるのは、家族の問題である。

児童相談所が対応した児童虐待の相談件数は、年間22万件を超え、過去最多の水準が続いている。その中で少なくない割合を占めるのが、殴る蹴るではなく、世話をしない、関心を向けないというネグレクトだ。食事を与えられない。風呂に入れてもらえない。話しかけられない。子どもは生きてはいるが、誰からも「存在」を認められていない。

血のつながった親のもとにいることが、子どもにとって常に最善なのか。この問いを、日本社会は長く避けてきた。親権は強く、親子の分離は最後の手段とされる。保護された子どもの多くは施設で暮らし、家庭的な環境で育つ里親委託の割合は、欧米諸国と比べて低い水準にとどまってきた。

是枝裕和監督の『そして父になる』や『万引き家族』が国際的に評価されたのは、血縁と養育のどちらが家族をつくるのかという問いが、普遍的な切実さを持つからだった。本作もその系譜に連なる。ただし、違いがある。本作では、その問いが「犯罪」と結びついている。法的には許されない形で始まった関係の中に、子どもにとってかけがえのない時間があったとしたら。法の正しさと、子どもの幸福は、常に一致するのか。

題名の『存在のすべてを』は、写実絵画に通じる言葉として読める。写実とは、対象を見たままに描くことではない。長い時間をかけて対象を見つめ、そこに在るということの重みを画面に移す行為である。誰かにじっと見つめられ、存在を丸ごと受け止められた経験。子どもが育つために必要なのは、突き詰めればそれだけなのかもしれない。

瀬々敬久が撮り続けてきた「事件のあと」

本作を瀬々敬久が監督することには、必然性がある。

瀬々監督は、成人映画の世界で頭角を現し、のちに大作も手がけるようになった異色の経歴を持つ。その作品歴を貫いているのは、実際の事件や社会問題から着想を得て、渦中の人間ではなく、その後を生きる人間を描くという姿勢である。4時間半を超える自主製作の長編『ヘヴンズ ストーリー』では、家族を殺された遺族と加害者のその後を追った。『友罪』では、かつて重大な少年事件を起こした男と、それを知らずに友人になった男の関係を描いた。『楽園』は、地方の集落で起きた事件と、疑われた者の孤立を。『護られなかった者たちへ』は、東日本大震災後の生活保護行政を扱った。

これらの作品に共通するのは、加害者と被害者、善と悪の境界を、安易に引かないことだ。人はなぜ罪を犯すのか。罪を犯した人間は、その後どう生きればいいのか。被害を受けた人間は、どうすれば憎しみから自由になれるのか。瀬々監督は、答えを出さずに、問いの重さそのものを映像にしてきた。

『64―ロクヨン―』で昭和の最後に起きた誘拐事件を、本作で平成の初めに起きた誘拐事件を撮る。二つを並べると、瀬々監督が、誘拐という犯罪に特別な関心を持っていることがわかる。誘拐は、被害者の家族から「日常」を奪う犯罪である。子どもが帰ってくるまで、あるいは帰ってこないと確定するまで、家族の時間は止まる。そして、帰ってきた後も、元の日常には戻れない。

1991年という年

物語の起点が1991年であることにも、意味を読み取ることができる。

1991年は、バブル経済が崩壊に向かい始めた年である。地価と株価が下がり始め、しかし多くの人は、まだそれが一時的な調整だと信じていた。その後に続く長い停滞を、誰も予想していなかった。

犯罪の形も、この頃を境に変わっていく。身代金を目的とした誘拐は、昭和の時代には、たびたび世間を震撼させた。だが、携帯電話の普及、防犯カメラの増加、通信記録の解析技術の向上によって、身代金の受け渡しで逃げ切ることはほぼ不可能になり、この種の事件は激減した。1991年の誘拐事件とは、いわば昭和型犯罪の最後の光景である。警察が逆探知に頼り、刑事が公衆電話の周りに張り込み、新聞記者がポケットベルで呼び出されていた時代だ。

そこから30年。日本社会は「失われた」と形容される時代を過ごした。門田が事件を追い続けた30年は、新聞が力を失い、地方が衰え、家族の形が変わっていった30年と重なる。事件の「空白」を埋める旅は、この国が何を失い、それでも何が残ったのかを確かめる旅でもある。

この映画をどう観るか

三つのことを提案したい。

第一に、謎解きの速度で観ないこと。本作は、誰が何をしたのかを急いで知るための映画ではないはずだ。瀬々監督は、人物が黙って立っている時間、風景の中を歩く時間を大切にする作り手である。出演者の一人は、すべてがリアリティに収束していく作品だと語っている。空白の時間を想像する余地を、観客自身が持つことが求められる。

第二に、門田の迷いを、自分の問題として考えること。私たちは日々、誰かの不幸を「コンテンツ」として消費している。事件の真相を暴く記事をクリックし、当事者の過去を掘り返す投稿を拡散する。知りたいという欲求は、どこまで許されるのか。記者に問われている倫理は、いまやスマートフォンを持つ全員に問われている。

第三に、物語の中の子どもを、現実の子どもにつなげること。隣の部屋から聞こえる泣き声。いつも同じ服を着ている子。夜遅くまで一人で公園にいる子。児童相談所の全国共通ダイヤル「189」は、匿名でかけられ、通告した人の秘密は守られる。確証がなくてもかまわない。見つめることは、ときに介入することでもある。

事件は、報道の中では終わる。法の中でも、時効という形で終わる。しかし、巻き込まれた人の人生の中では終わらない。その終わらなさに最後まで付き合おうとする人間がいること。本作が差し出しているのは、解決の爽快感ではなく、見つめ続けることの倫理である。

【作品情報】

『存在のすべてを』 2027年2月5日公開/監督:瀬々敬久/原作:塩田武士(朝日新聞出版)/脚本:樋口幸之助、山室有紀子/出演:西島秀俊、広瀬すず、志尊淳、仲村トオル、斎藤工、奥田瑛二ほか/配給:東映

 

※本稿は公開前の時点で、公表されている作品資料とキャストコメント、原作小説、公的統計に関する公開情報をもとに執筆した。未読・未見の読者に配慮し、物語の核心に関わる記述は避けている。

Share On
  • Twitter
  • LINE
  • Facebook