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「問題行動」は、誰にとっての問題なのか? 映画『認知症世界の歩き方』が家族に手渡す、もうひとつの地図

「問題行動」は、誰にとっての問題なのか? 映画『認知症世界の歩き方』が家族に手渡す、もうひとつの地図
©2026 「映画・認知症世界の歩き方」製作委員会
2040年、高齢者の約3人に1人が認知症かその手前にいる国で、「本人の視点」を物語にする意味――

財布を盗まれたと言って家族を疑う。夕方になると「家に帰る」と言って出ていこうとする。同じことを何度も尋ねる。風呂に入るのを嫌がる。

認知症の人のこうした言動は、長く「問題行動」と呼ばれてきた。介護する家族にとって、それは確かに問題である。疑われれば傷つくし、目を離せないのは疲れる。だが、ここで一度立ち止まりたい。その行動は、本人にとっても「問題」なのだろうか。本人の側から見れば、ごく筋の通った行動である可能性はないのか。

2021年に刊行された『認知症世界の歩き方』は、この問いを出発点にした本である。著者の筧裕介さんは、社会課題をデザインの力で解決することを掲げる活動を続けてきた人物で、認知症のある人およそ100人へのインタビューをもとに、本人が経験している世界を「旅行記」の形で描いた。

乗ると記憶をなくしてしまうバス。顔が見分けられなくなる村。時間がゆがむ宮殿。症状を医学用語で説明する代わりに、本人の目に世界がどう映っているかを、架空の国を旅するように紹介した。シリーズ累計は30万部を超え、NHKでも番組化された。

その映画化作が、2027年2月に劇場公開される。

©2026 「映画・認知症世界の歩き方」製作委員会

物語:息子だとわかってもらえない旅

映画は、原作の考え方を土台にしたオリジナルの物語である。

施設で陽気に暮らす父・高橋豊(ルー大柴)は、認知症によって、記憶が20数年前に戻っている。長く音信不通だった次男の茂木優輝(泉澤祐希)は、ある事情を抱えたまま父を連れ出し、旅に出る。父は、目の前の男が自分の息子だとわからない。優輝は、父が生きている「認知症世界」に戸惑いながら、壊れていた家族の関係を少しずつ取り戻していく。

監督・脚本の田村祥宏さんは、ドキュメンタリーなどを手がけてきた映像作家。主演のルー大柴さんは、芸歴49年にして長編映画初主演だという。撮影は群馬県前橋市を中心に行われた。

注目したいのは、父と息子の姓が違うことだ。高橋と茂木。公表された情報だけでは理由はわからないが、両親の離婚など、家族が一度ばらばらになった過去を想像させる。息子は長く父と会っていなかった。つまり彼は、父が認知症になっていく過程に立ち会っていない。介護の苦労を担ってもいない。その息子が、いきなり「20数年前の世界にいる父」と向き合うことになる。

記憶が戻る先に、何があるのか

父の記憶が「20数年前」に戻っている、という設定は示唆に富む。

認知症、とくにアルツハイマー型では、新しい記憶から失われ、古い記憶は比較的長く保たれることが多い。本人は、ある時期の自分に戻ったかのように振る舞うことがある。まだ働いていた頃、子どもが小さかった頃。周囲からは「過去に生きている」ように見える。

だが、その「過去」は、でたらめに選ばれているわけではないのかもしれない。人生の中でいちばん充実していた時期、あるいは、やり残したことがある時期。父の心が戻っていった20数年前に、この家族に何があったのか。息子が疎遠になったのは、いつからなのか。父の記憶の中では、息子はまだ子どもで、家族はまだ壊れていないのかもしれない。

そう考えると、この旅は奇妙な逆転をはらんでいる。現実の世界では、父と息子の関係は断絶している。しかし父の世界では、断絶はまだ起きていない。息子は、父の症状を通じて、失われる前の家族にもう一度出会うことになる。認知症を、失われていく過程としてだけでなく、何かが現れてくる過程として描く。原作の発想を、家族の物語に翻訳した設定だと言える。

「本人の視点」という転換

原作が広く読まれた背景には、認知症をめぐる考え方の大きな転換がある。

かつて、認知症は「何もわからなくなる病気」と考えられていた。本人に尋ねても仕方がない。だから、ケアの方針は家族と専門職が決めた。施設では、歩き回らないように、ベッドや車いすに体を固定することも珍しくなかった。

この見方を変えたのは、認知症のある本人たちの発言である。2000年代以降、国内外で、診断を受けた当事者が自らの経験を語り始めた。わからなくなるのではない。わかっているのに、うまくできない。うまく言えない。周囲が先回りして何もさせてくれないことが、いちばんつらい。そうした声が、少しずつ政策を動かした。

2024年1月には、共生社会の実現を推進するための認知症基本法が施行された。この法律は、認知症の人が尊厳を保ち、希望を持って暮らせる社会を目的に掲げ、施策の立案に本人や家族の意見を聴くことを求めている。政府は、認知症になったら何もできなくなるという古い見方を改め、認知症になってからも、できること・やりたいことがあり、住み慣れた地域で自分らしく暮らせるという「新しい認知症観」を打ち出した。

数字も確認しておく。厚生労働省の研究班の推計では、認知症の高齢者は2022年時点で約443万人。2040年には約584万人に増える。その手前の段階である軽度認知障害の人は、2040年に約613万人。合わせると約1200万人で、65歳以上のおよそ3人に1人にあたる。認知症は、一部の不運な人の病気ではなく、長生きすれば誰もが通りうる道である。

「財布を盗まれた」の内側

本人の視点に立つと、冒頭に挙げた行動はどう見えるか。

財布をしまった。そのこと自体を忘れてしまう。本人にとっては、しまった記憶がないのだから、財布は「あるはずの場所から消えた」ことになる。自分が置き忘れたとは考えられない。その記憶がないのだから。残る説明は、誰かが持っていった、である。疑う相手が身近な家族になるのは、家に出入りできるのがその人だからだ。筋は通っている。

夕方に「帰る」と言うのは、ここが自分の家だという感覚が薄れているからかもしれない。見慣れない場所にいる不安。夕飯の支度をしなければ、子どもが帰ってくる、という昔の習慣の記憶。帰ろうとするのは、その人が責任感のある人だったことの表れとも言える。

風呂を嫌がるのは、服を脱ぐ手順がわからなくなっている、湯の温度を極端に熱く感じる、浴室の床と湯船の境目が見分けにくく怖い、といった理由がありうる。

こう見ていくと、対応も変わる。「盗ってない」と言い返す代わりに、一緒に探す。「ここが家でしょう」と引き留める代わりに、「お茶を飲んでからにしましょう」と気持ちを受け止める。行動そのものを止めようとするのではなく、行動の理由になっている不安や困りごとに働きかける。出演者の一人は、認知症の人を「どう見るか」だけでなく、その人に「どんな世界が見えているか」を一緒に見ることが大切だと語っている。映画の題名が「歩き方」であるのは、これがガイドブックだからだ。知らない国を旅するとき、人はその国の習慣を学ぶ。現地の人を自分の国の常識で裁いたりはしない。

「ハートフル」が隠すもの

ただし、この種の作品には避けがたい危うさもある。それを指摘しておくのが公平だろう。

本作は「笑いと涙のハートフルな父子旅」として紹介されている。多くの観客に届けるために、明るい作品にすることは理解できる。主演のルー大柴さんも、認知症の役と聞いて戸惑ったが、明るい作品だと聞いて引き受けたと述べている。

しかし、現実の介護は、数日の旅では終わらない。何年も続き、少しずつ重くなる。排泄の介助、夜中の見守り、暴言、仕事との両立。介護を理由に仕事を辞める人は、年間10万人前後にのぼる。行方がわからなくなり、警察に届け出が出される認知症の人は年間1万9000人ほどで、亡くなって見つかる人もいる。介護に疲れ果てた家族による事件も、毎年のように起きている。

「本人の世界を理解すれば、穏やかな関係が築ける」というメッセージは正しい。だが、それが「うまくいかないのは、家族の理解が足りないからだ」という圧力に変わるなら、すでに限界まで頑張っている介護者をさらに追い詰める。理解したくても、疲れすぎて理解する余裕がない。それが多くの家族の現実である。

そして、本作の主人公が、介護を担ってこなかった息子であることには、注意が要る。たまに会いに来る家族は、やさしくできる。毎日世話をしている家族や施設の職員には、きれいごとに見える瞬間がある。旅から帰った後、父の日常を誰が支えるのか。施設の職員として安藤なつさんが出演しているとすれば、その視点がどこまで描かれるかが、作品の誠実さを測る物差しになる。介護福祉の現場は慢性的な人手不足にあり、2040年度には約57万人の介護職員が不足すると国は推計している。本人の視点に立ったていねいなケアは、それを実行する人手と時間があってはじめて成り立つ。

ショッピングモールで観るということ

本作の配給が、全国でシネマコンプレックスを展開するイオンエンターテイメントであることにも意味を見いだせる。

イオンのショッピングモールは、多くの地方都市で、高齢者が日常的に訪れる数少ない場所になっている。買い物をし、歩き、人と会う。認知症の人やその家族にとっても、身近な外出先である。その場所で、この映画がかかる。

認知症の人が暮らしやすい社会とは、特別な施設を増やすことだけを意味しない。スーパーのレジで支払いに手間取っても、後ろの客が舌打ちしない。銀行の窓口で同じ質問を繰り返しても、ていねいに対応される。道に迷っている様子の人に、誰かが声をかける。そうした日常の場面の積み重ねである。小売りや交通、金融の現場で、認知症について学ぶ「認知症サポーター」の養成が進められ、受講者は延べ1500万人を超えた。知識は広がりつつある。足りないのは、知識を使う余裕と、失敗を許す空気だ。

診断のあとに来る「空白」

もうひとつ、原作が光を当てた問題がある。診断を受けてから、介護サービスが必要になるまでの期間だ。

近年、認知症の診断は早期化している。物忘れが気になって受診し、軽度認知障害や初期の認知症と告げられる。2023年以降、アルツハイマー病の原因とされる物質を脳から取り除く新しい薬が相次いで承認され、早い段階での診断の意義は高まった。ただし、これらの薬は進行を一定程度遅らせるもので、治すものではない。使える人の条件も限られる。

問題は、診断の後である。まだ身の回りのことは自分でできる。介護保険のサービスを使うほどではない。しかし、病名を告げられた本人は深く動揺している。仕事を続けられるのか。車の運転はどうなるのか。家族に迷惑をかけるのではないか。その時期に、相談できる相手も、通える場所もない。当事者はこれを「空白の期間」と呼んできた。早期に診断されながら、支援がないまま絶望だけを抱えて過ごす。

この時期にもっとも力になるのは、少し先を歩いている同じ病気の人との出会いだと言われる。診断を受けても、工夫しながら働き、趣味を続け、笑って暮らしている人がいる。その姿を見ることが、どんな説明よりも希望になる。各地で、認知症の本人が相談に乗る活動や、本人同士が集まる場が広がっている。原作が本人へのインタビューから生まれたことの意味は、ここにもある。

認知症世界は、いずれ多くの人が自分の足で歩くことになる土地

三つのことを提案する。

ひとつめは、父の言動に「なぜ」と問いながら観ること。奇妙に見える行動が出てきたら、笑う前に、あるいは笑った後で、本人にはどう見えているのかを想像する。映画はそのための練習の場である。

ふたつめは、画面に映っていない介護者を思うこと。息子が現れるまで、父を支えてきたのは誰か。浅野ゆう子さんが演じる茂木陽子は、息子と同じ姓を持つ。彼女がどんな年月を過ごしてきたのか。物語の中心にいない人物にこそ、介護の現実がある。

みっつめは、自分自身の将来として観ること。浅野さんは、認知症は誰にとっても身近になりうる問題だと語っている。いずれ自分が認知症になったとき、周囲にどう接してほしいか。何を続けたいか。誰に、何を伝えておきたいか。それを元気なうちに家族と話しておくことは、どんな保険よりも確かな備えになる。

認知症世界は、遠い異国ではない。多くの人が、いずれ自分の足で歩くことになる土地である。その地図を、いま手に入れておくことには十分な意味がある。

【作品情報】

『認知症世界の歩き方』 2027年2月5日公開/監督・脚本:田村祥宏/原作:筧裕介/出演:ルー大柴、泉澤祐希、安藤なつ、浅野ゆう子ほか/配給:イオンエンターテイメント

※本稿は公開前の時点で、公表されている作品資料とキャストコメント、原作書籍、公的統計に関する公開情報をもとに執筆した。登場人物の関係など公表されていない点についての記述は筆者の推測である。介護に関する個別の相談は、地域包括支援センターなどの窓口を利用されたい。

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