2025年11月、東京でデフリンピックが開かれた。耳の聞こえない、聞こえにくいアスリートによる国際総合競技大会である。1924年にパリで第1回が開かれてから100年余り、日本での開催は初めてだった。日本選手団は史上最多となる51個のメダルを獲得し、観客は延べ約28万人にのぼったと報じられている。
開催前、この大会の名前を知っている人は多くなかった。数年前の民間の調査では、デフリンピックを知っていると答えた人は2割に満たず、パラリンピックのほぼ全員が知っているという状況とは大きな差があった。それが大会をきっかけに一気に変わった。会場では、手を高く上げてひらひらと振る手話の拍手や、目で見てわかる応援の形が広がり、テレビも連日報じた。
あれから1年。中村和彦監督のドキュメンタリー『デフリンピック・ストーリーズ』が11月14日より公開される。カメラが追ったのは、世界一を目指すデフサッカー女子日本代表と、デフリンピック初出場のデフハンドボール男子日本代表。開会式や陸上、ゴルフ、バレーボール、さらに元代表選手や、ろうの夫婦の思いも収められているという。
なぜパラリンピックとは別なのか
そもそも、なぜ聴覚障害のある選手はパラリンピックに出ないのか。この疑問を持つ人は多い。
理由のひとつは歴史である。デフリンピックはパラリンピックよりも古い。ろう者たちは20世紀の早い時期から、自分たちの手で国際的なスポーツ組織をつくり、大会を運営してきた。もうひとつは、障害の性質だ。聴覚に障害があっても、身体の運動機能そのものは聞こえる人と変わらない。必要なのは、身体機能の差を調整するクラス分けではなく、音に頼らない情報の伝え方である。スタートの合図は光で、審判の笛は旗で伝える。競技中は補聴器や人工内耳を外す。全員が「聞こえない」条件で戦う。
そして、もっとも根本的な理由がある。ろう者には、手話という言語と、それを核にした文化がある。デフリンピックは競技会であると同時に、世界中のろう者が集い、国際手話で語り合う場でもある。それは「障害者のスポーツ大会」という枠には収まらない、言語的少数者の祭典という性格を持っている。
手話が禁じられていた時代
この点を理解するには、日本のろう教育の歴史を知る必要がある。
日本のろう学校では、長いあいだ、手話の使用が抑えられてきた。聞こえる人の社会に適応させるために、相手の口の動きを読み取り、声を出して話す訓練(口話法)が重視されたからだ。昭和の初めから数十年にわたり、教室で手話を使うと叱られ、手を縛られたという証言も残っている。手話は言語ではなく、劣った身ぶりだと見なされた。
しかし、口の形から読み取れる情報は限られる。授業の内容が十分に伝わらないまま、学ぶ機会を奪われた世代がいる。彼らは寄宿舎や校庭で、教師の目を盗んで先輩から手話を受け継いだ。手話は、ろう者自身が守り抜いた言語である。
状況が変わり始めたのは、ここ30年ほどのことだ。2006年に国連で採択された障害者権利条約は、手話を言語として明記した。日本でも2011年の改正障害者基本法に「言語(手話を含む)」と書き込まれ、2013年の鳥取県を皮切りに、手話言語条例が全国の自治体に広がった。そしてデフリンピックを目前にした2025年6月、手話に関する施策を総合的に進めるための手話施策推進法が成立した。
もうひとつ、忘れてはならない歴史がある。1948年から96年まで存在した旧優生保護法のもとで、障害を理由に不妊手術を強いられた人々の中には、多くのろう者が含まれていた。結婚の条件として手術を求められた夫婦、何も知らされないまま手術された人。最高裁は2024年7月、この法律を憲法違反と断じ、国に賠償を命じた。本作が、ろうの夫婦の思いを取り上げていると伝えられていることは、こうした文脈の中で受け止めたい。競技場の外にも、語られるべき物語がある。
「聞こえない」は、ひとつではない
本作について、選手同士が本音で向き合い、理解していく姿が描かれると紹介されている。この一文は、デフスポーツの核心に触れている。
外から見ると、デフのチームは「聞こえない人たち」という一つのまとまりに見える。だが内側は、驚くほど多様である。
生まれつき聞こえず、ろう学校で育ち、日本手話を第一言語とする人がいる。地域の学校に通い、補聴器や人工内耳を使い、声で話すことを中心に育った難聴の人がいる。途中で聞こえなくなった人もいる。手話が流暢な人と、大人になってから覚え始めた人。自分を「ろう者」と呼ぶ人と、「難聴者」と呼ぶ人。その違いは、単なるコミュニケーション手段の差ではなく、アイデンティティの違いでもある。
一つのチームの中に、複数の言語と文化が同居している。手話で育った選手には、声で話す選手の指示が伝わらない。声で育った選手は、手話の輪に入れず孤立する。聞こえる世界で「聞こえない人」として苦労してきた者同士が、チームの中でまた、伝わらなさにぶつかる。
これは、マイノリティの集団がしばしば抱える問題である。外からは一枚岩に見られ、内側の差異は見過ごされる。しかし、差異を抑え込んで得た団結はもろい。互いの育ちの違いを言葉にし、どう伝え合うかを一から決めていく。その過程は、試合の勝敗よりもずっとドラマチックで、聞こえる観客にとっても他人事ではない。職場でも地域でも、私たちは「わかり合えているはず」という前提に寄りかかって、実際には伝わっていないことを放置している。
20年という時間
中村和彦監督は、知的障害、聴覚障害、電動車椅子など、障害のある人々のサッカーを長年にわたって撮り続けてきた。デフサッカー女子日本代表を撮り始めたのは、2009年の台北デフリンピックの頃。その記録は『アイ・コンタクト』(2010年)にまとめられた。
当時の女子代表は、結成から日が浅く、国際大会で大差で敗れるチームだった。監督によれば、その後も撮影を続けたが、一度は作品化を断念している。追っていた選手たちがフットサルで世界一になった瞬間も、カメラに収めることができなかったという。東京大会は、その長い助走の先にある。かつての作品に出ていた選手の一部は、いまも代表にいる。
一方、ハンドボール男子はデフリンピック初出場。監督は、彼らを20年前のサッカー女子に重ねて見ているという。世界の壁に跳ね返される新しいチームと、20年かけて世界の頂点を争うところまで来たチーム。二つを並べることで、本作は一大会の記録を超えて、ひとつの競技文化が育つまでの時間を可視化しようとしている。
障害者スポーツの報道は、大会の期間に集中し、終われば消える。メダルの数は報じられても、選手がふだんどこで練習し、何の仕事をし、遠征費をどう工面しているかは伝えられない。デフアスリートの多くは、仕事を持ちながら競技を続けている。パラリンピックに比べて公的な支援や企業の協賛は乏しく、代表合宿や海外遠征に自己負担が生じる競技も少なくなかった。20年撮り続けるという行為は、その報じられない時間に付き合うことだ。
祭りのあとに残るもの
大きな国際大会が終わると、必ず「レガシー」という言葉が語られる。だが、2021年の東京パラリンピックの後、障害のある人が日常的にスポーツをする割合は、目に見えては伸びなかった。熱狂は、放っておけば何も残さない。
デフリンピックが残すべきものは何か。競技施設ではない。情報の伝え方である。
駅や空港のアナウンスは、聞こえない人には届かない。災害時の防災無線も、避難所での口頭の連絡も同じだ。病院の待合室で名前を呼ばれても気づけない。会議や研修に手話通訳や文字による支援がつかない。手話通訳者は全国的に不足し、高齢化が進み、その報酬は専門性に見合わないと長く指摘されている。大会に合わせて、音声を文字に変えて表示する技術や、音を視覚や振動で伝える機器が各地に試験的に導入された。それが大会後も使われ続けているかどうか。1年後のいま、確かめるべきはそこである。
「聞こえない」という障害は、外から見えない。車いすや白杖のような目印がないため、困っていても気づかれにくい。後ろから声をかけられて返事をしなければ、無視したと誤解される。見えない障害だからこそ、社会の側が意識して仕組みをつくらなければ、不便はいつまでも個人の我慢で処理される。
聞こえない子どもたちの、いま
チームの中の多様性は、今後さらに複雑になっていく。聞こえない子どもを取り巻く環境が、この20年で大きく変わったからだ。
現在、日本で生まれる赤ちゃんの大多数は、生後まもなく聴覚の検査を受ける。難聴が早く見つかれば、乳児期から補聴器を使い、条件が合えば1歳前後で人工内耳の手術を受けることもできる。人工内耳は、音を電気信号に変えて聴神経に直接伝える機器で、早期に装用を始めた子どもは、音声による会話をかなりの程度身につけることが多い。
その結果、ろう学校に通う子どもは減り、地域の学校で聞こえる子どもと一緒に学ぶ難聴の子どもが増えた。それ自体は選択肢の広がりである。しかし、別の問題が生まれている。地域の学校では、聞こえない子どもは学年に一人ということが多い。授業は何とかわかっても、休み時間の雑談、給食中の冗談、部活動での先輩の指示といった、集団の中の会話は聞き取れない。周りからは「聞こえている」と思われているため、困っていることに気づかれない。同じ立場の仲間にも、手話にも出会わないまま育つ子どもがいる。
一方で、手話を第一言語として育つ子どもは減り、ろう者が世代を超えて受け継いできた手話と文化を、誰が継ぐのかという不安も語られるようになった。人工内耳か手話か、という二者択一で語られがちだが、当事者の多くが求めているのは、両方である。音声も使い、手話も使い、場面に応じて選べること。
デフスポーツのチームは、そうした若い世代が、初めて「自分と同じ人たち」に出会う場所になっている。地域の学校で一人だった選手が、代表合宿で手話に出会い、自分は何者なのかを考え始める。競技の場であると同時に、アイデンティティが育つ場でもある。映画の中の話し合いの場面には、その背景がある。
手話をひとつでも、覚えて帰る
三つのことを提案する。
ひとつめは、音に注意して観ること。ドキュメンタリーは通常、音楽やナレーションで観客の感情を導く。聞こえない選手たちを描く作品が、音をどう扱っているか。試合中のピッチに声の指示は飛ばない。目と目を合わせ、手を動かして伝え合う。監督の前作の題名が『アイ・コンタクト』だったことを思い出したい。字幕の入れ方にも、作り手の姿勢が表れるはずだ。
ふたつめは、選手たちのあいだの「伝わらなさ」の場面を見逃さないこと。感動的な勝利より、気まずい話し合いのほうに、この作品の価値がある可能性が高い。
みっつめは、観終わった後に、手話の拍手を一つ覚えて帰ること。両手を上げてひらひらと振る。それだけでいい。そして、身の回りの「音でしか伝わっていない情報」を一つ探してみる。インターホン、電車の遅延の放送、炊飯器の炊き上がりの音。聞こえることを前提につくられた世界の輪郭が、少し見えてくる。
28万人の観客は、家に帰った。選手たちは職場に戻り、次の大会に向けて、また自分たちで練習場所を探している。本作は、祭りのあとの静けさの中で公開される。その静けさの中でこそ観る意味がある。
【作品情報】
『デフリンピック・ストーリーズ』 2026年11月14日公開(ポレポレ東中野ほか全国順次)/監督・編集:中村和彦/プロデューサー:森内康博、中村和彦/製作・配給:らくだスタジオ/※全ての回で日本語字幕付き上映
※本稿は公開前の時点で、公表されている作品資料、監督の過去作、東京2025デフリンピックおよび関連法制度に関する公開情報をもとに執筆した。本編の内容に関する記述は公表された情報の範囲にとどめている。