内戦を逃れて亡命した夫婦を新天地で待っていたのは……
凄まじい内戦が延々と続く南スーダンからイギリスへ、命からがら逃れてきたボルとリアールの夫婦。二人は最愛の娘を難民船の転覆事故で亡くし悲しみに暮れていたが、イギリス当局から仮亡命資格を得て住居を充てがわれ、「ここで二人で生まれ変わろう」と決意する。しかし、ある日から二人は、その家に棲む自分たち以外の存在に気づき始める。
Netflixオリジナル映画『獣の棲む家』は米英合作のホラー映画だ。ほとんどのシーンが二人の住む家の中で撮られている。その家も入り組んだものではなくて、キッチンとリビングと寝室がある、シンプルな家。ただ、二人で住むには少しだけ大きいかもしれない。だから劇中、ボルは「新しい家族を作ろう」とリアールに提案する。「この場所で二人で生まれ変わろう」と。
しかし、そんなボルのことをリアールは訝しげに、責めるように見つめる。当然、ボルにしても娘のことを忘れたわけではない。「でも俺たちは、じゅうぶん悲しんだだろう?」とボルは言う。もう、つらい過去は清算しようというのである。
戦争を生き抜いてきた人間が、それでも恐怖してしまう“獣”とは?
この映画のミソは、壮絶な現実を経験した上に娘まで失った夫婦が、いったい何に恐怖することになるのか、というところにあるんじゃないかと思う。いつ殺されてもおかしくなかった祖国、そこで生き残った人間が、平和な土地で何を恐れるのか? そして家に棲みつく「獣」とは何を指すのか?
“それ”は娘のかたちをしていたり、焼かれたり腐ったりした人のかたちをしていたりする。それらは壁の裏側に棲んでいて、夜な夜な壁から這い出てくる。ボルは叫びながら追い出そうとするが、リアールは「追い出すことはできない」と言う。
そう、追い出すことはできないのだ。それらは死者ではあるけれど、幽霊や悪霊というのではない。ボルとリアールのなかに残る記憶なのだ。つまりボルが精算しようとしたつらい記憶であり、それはまた故郷の記憶でもある。
内戦、差別、死者の声……どれだけ離れても決して逃れられない恐怖と対峙する
※以下、一部物語の結末に触れていますのでご注意ください。
生き残った人と生き残れなかった人、もしくは生き残ってしまった人と生き残らなかった人。ボルとリアールは、優れていたから生き残ったのだろうか。日々の行いが良かったのだろうか。生き残るべき何かがあったのだろうか。おそらくだけれど、そこに大きな違いはないんじゃないかと思う。誰が死んでもおかしくなかった。そんな状況で生き残ったボルとリアールを、死者たちが責め続ける。「お前は盗人だ」「お前が代わりに死ぬんだ」と囁き続ける。ボルは一体何を盗んだというのか。なぜボルとリアールは、こんな目に遭わなければいけないのか。生き残った側の人間というだけで。
南スーダンと日本を比べることはできないけれど、生き残っているという点で、僕たちもボルとリアール側の人間であるといえる。だからボルとリアールへの問いは、自分へも向いてくる。優れているから生きているのか。日々の行いがよいのか。生き残るべき何かがあったのか。いやいや、全く違うだろう。運が良かった、というより、もっと些細な、ただ生き残っているという感じ。何の根拠も持たずに、ただ生き残った僕らは、まるで幽霊のようにフワフワした存在なのかもしれない。だとしたら、死者と僕らにはどんな違いがあるというのだろう。
映画の最後、ボルとリアールは「獣」を追い出すことをやめる。「獣」と同居して、暮らしていくことを決めるのだ。それは決して暗い決断ではなく、諦めの極地というわけでもない。和やかに終わっていくのである。それはまるで、ただ偶然生き残った根拠なき生存者の僕らに、死者こそが根拠をもたらしてくれるのだというような終わりだった。
文:松㟢翔平
『獣の棲む家』はNetflixで独占配信中