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歴史の闇に切り込むラブ・サスペンス『スパイの妻』 娯楽映画で社会問題を提示し 見事ヴェネツィア銀獅子賞受賞!

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ライター:#松崎健夫
歴史の闇に切り込むラブ・サスペンス『スパイの妻』 娯楽映画で社会問題を提示し 見事ヴェネツィア銀獅子賞受賞!
『スパイの妻』©2020 NHK, NEP, Incline, C&I

脚本ユニット<はたのこうぼう>と恩師・黒沢清監督とのタッグ作!

軍国主義へと向かってゆく雰囲気のことを「軍靴の音が聞こえる」と表現するが、『スパイの妻』(2020年)は軍人たちが工場へと軍靴を鳴らしながら歩んでゆく姿で、まさに幕が開ける。社会が戦時へと突き進んでゆく日本を舞台に、国家機密を知った優作(高橋一生)は、自身の正義を貫くため公表に踏み切ろうとする。一方、彼の妻・聡子(蒼井優)は、夫婦の愛と国家への忠心との狭間で苦悩しながらも、“国家を裏切る優作の妻”=“スパイの妻”として生きてゆこうとする姿が描かれている。この映画は夫婦愛の映画であり、スパイ映画でもあるのだ。

『スパイの妻』©2020 NHK, NEP, Incline, C&I

第77回ヴェネツィア国際映画祭で、黒沢清監督が監督賞にあたる銀獅子賞を受賞したことでも話題の本作。監督賞としては『座頭市』(2003年)で受賞した北野武監督以来、17年ぶりに日本の監督が受賞したことになる。手前味噌で恐縮なのだが、黒沢清監督と北野武監督のふたりは筆者が東京藝術大学大学院在学中の教授だったという縁がある。また、映画冒頭で「六甲山の麓」と舞台となる場所が説明されているが、六甲山のある神戸は黒沢清監督の故郷であり、『スパイの妻』の脚本を担当した濱口竜介と野原位が東京から居を移して滞在型のワークショップを行った土地でもある。

神戸で製作した濱口竜介監督の『ハッピーアワー』(2015年)は、ロカルノ国際映画祭で最優秀女優賞や脚本賞スペシャル・メンションなどに輝いたが、この作品では脚本ユニット<はたのこうぼう>として、濱口竜介と野原位(もうひとり高橋知由が加わる)が共同脚本を担当していた。濱口竜介監督は、初商業作品『寝ても覚めても』(2018年)でいきなりカンヌ国際映画祭のコンペ作品に選出されるなど、国際的な注目を浴びている監督のひとり。その彼らが恩師である黒沢清監督と組み、受賞に至ったことは極個人的な感慨を伴うのである。濱口竜介と野原位は、かつて映画製作を共にした我が学兄・学友でもあるからだ。

『スパイの妻』©2020 NHK, NEP, Incline, C&I

「Jホラーのゴッドファーザー」がホラー映画の手法で現実社会の問題や人間の在り方を描く

『スパイの妻』は、黒沢清監督にとって初の歴史物。戦争をテーマにしながら、サスペンス映画やスパイ映画といったジャンル映画の構造になっている点が特徴だ。アメリカ映画やヨーロッパの映画には、同様のジャンルに分類される作品群があるが、日本映画としては珍しいと指摘された点もヴェネツィア国際映画祭での評価のひとつだった。とはいえ、黒沢清監督による独特の映像表現は本作でも健在だ。窓、風、陰影、手前と奥の構図・動線、長回しの演出などなど。黒沢清監督作品における“刻印”を見出だせることは、どんな製作体制(今回は8Kでの撮影という挑戦もある)、どんな題材であっても「黒沢清は黒沢清である」と思わせるに至る。

『スパイの妻』©2020 NHK, NEP, Incline, C&I

例えば、『CURE キュア』(1997年)や『回路』(2000年)などスリラーやホラーといったジャンルの作品が評価されたことによって、黒沢清監督は“Jホラーのゴッドファーザー”や“マスター・オブ・Jホラー”と海外で評されてきた。ところが『トウキョウソナタ』(2008年)や『贖罪』(2012年)辺りからは、演出手法はそのままに人間ドラマを構築していることを窺わせてきた。ある意味では「ホラー映画の手法によって現実社会の問題や人間の在り方を描いている」と言えるのだ。

『スパイの妻』©2020 NHK, NEP, Incline, C&I

今回の審査員のひとりである『東ベルリンから来た女』(2012年)などのクリスティアン・ペッツォルト監督は「この映画にはオペラ的なリズムがある」と演出方法や映像の特徴を指摘しながら、「1930~1940年代の伝統的な映画スタイルによって政治ドラマを描いている」と講評していたのが印象的だった。

『スパイの妻』©2020 NHK, NEP, Incline, C&I

重要なのは“衝撃的な機密の内容”よりも“抑圧に抗う人間の生き様”である

社会の中で自由に生きようとするいち個人にとって、窮屈な世相であることを提示するため、優作と聡子の夫婦は貿易商を営む富裕層として描かれている。それは戦禍による日常生活への影響・落差が大きくなるからという点だけでなく、「私たちに戦争なんて関係ないわ」と享楽的な思考を持っている人々が、如何にして戦争に巻き込まれてゆくのか? ということを提示したかったからのように思わせる。社会に抑圧されるような状況下でも、自身の欲望や幸福を願う人間が当時もいたはずだからだ。蒼井優は富裕層の妻を演じているが、当時の上流階級らしい言葉遣いを操りながら、終盤では凄まじい姿を見せてゆく。ラストから逆算してアプローチした彼女の演技には、圧倒されるばかりだ。

『スパイの妻』©2020 NHK, NEP, Incline, C&I

『スパイの妻』は戦時下の物語だが、いつの時代も個人の自由を守るため、人間は社会との軋轢の中で試行錯誤を繰り返し、闘ってきたという歴史がある。それゆえ、劇中で描かれる機密の真偽だけでなく、人間の本質的なものに対する真偽というものが、この映画では国賊たるスパイ活動とも呼応させている。つまり、衝撃的な機密の内容も重要だけれど、もっと重要なのは抑圧に抗う人間の生き様の方だと感じさせるのだ。そこには「日本という島国の物語である」或いは「約80年も前の物語である」という海外からの視点を超越した普遍性がある。ヴェネツィア国際映画祭の審査員たちの琴線に触れた理由は、そんなところにもあるのだろう。

『スパイの妻』©2020 NHK, NEP, Incline, C&I

『スパイの妻』が纏っている「社会問題を描き、テーマは重厚であるにも関わらず、基本的には娯楽映画だ」という作品の特徴は、奇しくも前年の金獅子賞に輝いた『ジョーカー』(2019年)の特徴とも重なる。このこともまた、“現存する世界最古の映画祭”という歴史あるヴェネツィア国際映画祭で、『スパイの妻』が評価された由縁のように思えるのだ。

『スパイの妻』©2020 NHK, NEP, Incline, C&I

文:松崎健夫

『スパイの妻』は2020年10月16日(金)より新宿ピカデリーほか全国公開

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『スパイの妻』

1940年、聡子は貿易会社を営む夫・福原優作とともに、神戸で洒脱な洋館で暮らしていた。ある日、渡航した満州で恐ろしい国家機密を偶然知ることになり、正義のために事の顛末を世に知らしめようとする優作。満州から連れ帰った謎の女、油紙に包まれたノート、金庫に隠されたフィルム…、聡子の知らぬところで別の顔を持ち始めた夫に不安を抱く聡子。それでも、優作への愛が彼女を突き動かしていく。

制作年: 2020
監督:
出演: