【映画の今、世界の今】『ファースト・マン』 越智道雄

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ライター:越智道雄
【映画の今、世界の今】『ファースト・マン』 越智道雄
『ファースト・マン』©Universal Pictures
アカデミー賞3部門に輝いた『セッション』(2014年)、アカデミー賞6部門受賞作『ラ・ラ・ランド』(2017年)のデイミアン・チャゼル監督が、ライアン・ゴズリングと再びタッグを組んだ。今度はその舞台を宇宙へと広げ、1969年に成し遂げられた人類初の偉業「月面着陸」を描く。月に最初にたどりついた男“ファースト・マン”を、アメリカ近代史に詳しい越智道雄先生が語ってくれた。

「叙事詩」から「叙情詩」への転換

『ファースト・マン』©Universal Pictures

1961年5月、ケネディは月への競合面でソ連のガガーリンらに水をあけられた事態の打開を訴える演説を敢行。1963年11月22日の自身の暗殺から6年弱後の1969年7月のアームストロングらによる月面着陸成功では、故人の演説が重要な背景音を構成している(映画では最後に披露)。

1960年代は、カウンターカルチャーという意識改革の時代だったが、後述する「叙事詩」から「叙情詩」への大転換の時代でもあった。とはいえ、カウンターカルチャーが支持したケネディこそ(作家ノーマン・メイラーは「ケネディはヒップだ」と言った。「ヒップ」とは「五感が開けている」というような意味で「ヒッピー」の語源)ヒップといえども、ケネディはソ連の挑戦に背を向けるわけにはいかなかったのである。いわば、まさに死せるケネディによって宇宙飛行士らもNASAも走らされたのだ。

ケネディの意図は地球を破壊しかねない米ソの核開発競争を宇宙開発に逸らせる点にもあった。これこそがニール・アームストロングらジェミニ8号(1966年3月16日打ち上げ)の乗組員らを駆り立てる背景となるが、本作では限界のある個々の乗員らに課せられた難題としてアポロ11号の月面着陸(1969年7月24日帰還)が中心に描かれる。

もっとも、映画ではアームストロングらの家族が大きな比重を占める点では、月面着陸が米ソの競合を背景に宇宙開発競争でソ連に競り勝った「叙事詩」ではなく、人間としての個々の飛行士の姿に照準した「叙情詩」に一変している。叙事詩は民族の存亡に関わる場合に書かれ、叙事詩的な時代には膨大な死者が出るのが最大の特徴で、第二次大戦は日本にとっての最も叙事的な体験だったことになる。核開発を巡る米ソの対決こそ史上初の最も悲惨な叙事詩が書かれる予測が世界に充ち満ちていた。膨大な死者への予測が叙事詩の大前提となる。前述のケネディの演説の切迫感(多くは宇宙開発競争に具現)には叙事詩的な要素がみなぎっていた。

一方、「叙情詩」は「民族」から「個人」に視点が移動したときに表面化してくる。この激変は映画の随所に見られるが、この映画ではニールが妻ジャネットと家庭を営んだ家の撮影用セットの復元こそその核であり、この家庭で彼女も子どもらも夫(父親)の任務成功より無事の帰還を露骨に願っている。それが最も集約されるのは、ニールが月面に立てた星条旗の画像がこの映画から消されていることだろう。言うまでもなく20世紀末のソ連瓦解がこの大激変の直接の原因で、膨大な死者が予測される叙事詩的な時代が去ったことが最大の理由である。

星条旗ばかりか、月面に一歩を記したときのニールの名文句「小さな一歩だが人類にとっては大きな一歩」云々も、この映画では叙事詩的重みを消した無造作さで処理される。

それにしても安全な飛行が確認されるまで、カプセルに自身の排泄物を入れる容器とともに閉じ込められる各飛行士の姿には閉所恐怖症をかきたてる凄みがある。この「閉じ込め」はロケット発射時点だけでなく、発射の数日前から続くのだ! この状況から宇宙への飛行を前にしたニールの発言「生還できないかもしれない。神がいなければ、自分は心底孤独だ」が出てくる。この宇宙での孤絶感は当然映画全体に響き渡る。

それ以上に強調されるのが宇宙飛行機器の危うさであり、ニールはデス・ヴァレーで飛行訓練機を墜落させ、パラシュートで危うく脱出する。これがNASAでの彼の評価を下げるが、種々の事情で彼は主要任務に選抜され続ける。

また、アームストロングの妻の不安と夫妻が幼い娘の命を失った事実がニールに及ぼした苦悩など個人レベルでの感情が描かれるのも、この主題では新たな要素(つまり叙事詩から叙情詩への激変)となる。この幼女(三歳になる前に脳腫瘍で死亡)については、ニールは生前の彼女の亜麻色の髪をいじりながら月を謡った子守歌で寝かしつける。その幼女の死に際して彼は妻を慰める義務を怠るが、人知れず号泣する彼の姿には、後述する新たなマチズモ(男らしさ)といえども、宇宙飛行士として弱みを見せられない現実が反映されている。幼女への彼なりの追悼は、本編で象徴的に描かれる。

アポロ11号に先立つジェミニ8号での試練

『ファースト・マン』©Universal Pictures

おまけにアポロ11号に先立つジェミニ8号ではニールには宇宙飛行は初体験だった。しかもニールはすでに軍属を退官、文官としての船長職だった。個人レベルで文官という要素に焦点を絞るべく、前述のようにアポロ11号の主人公が月面に星条旗を立てる行為は今度の映画では省かれ、右派の怒りをかきたてた叙事詩的気分は「屍山血河を築いても国を守れ」と叱咤する、膨大な死者をものともしない右派の特徴。

彼らの拠り所は旧来のマチズモで、この映画のニールのそれは妻や息子等に対しては寡黙だが、今日の我々に理解できる変質を遂げている新たなマチズモであり(弱みを絶対に見せられない点では旧来のマチズモと変わらないが、叙事詩的保護膜をかなぐり棄てているだけに一層厳しいものがある。むろん、ここにも叙事詩から叙情詩への転換が見られるのだが、叙情詩への転換のほうが一層厳しいものとなる。同じ変質はNASAのスタッフらにも起きている)、前述のようにケネディの演説はこの映画の最後で響き渡り、叙事詩的残滓となる(あくまで宇宙開発競争は米ソ両国にとっては明らかに軍事目的だった。アメリカには宇宙を戦場とする宇宙軍の組織が存在する)から、この「残滓」に新たな光が当てられるのは、別なミッションが成功、機体に合衆国の国名が書かれている画像を見たNASAの飛行士の1人が「ソ連に電話して糞でも食らえと言ってやれ!」と叫ぶ場面である。

とはいえ、アポロ11号の月面着陸時点でNASAが立てた星条旗場面は画像から排除され、このことは半世紀以上の経過で映画関係者にとってはこの叙事詩的な軍事目的からの脱皮は必修事項だったことを窺わせる。

宇宙飛行への莫大な予算投入への批判は、当時から、特に黒人側から盛んだったし(宇宙飛行に関与していたのは圧倒的に白人ばかり)、映画では作家カート・ヴォネガットが白黒画像で登場、宇宙飛行予算を批判する姿は白人による自己批判の典型。同時に隊長のニールが文官であることもまた「脱皮」の最たるもので、ジェミニ8号の主要任務であるアジェナとのドッキング、それゆえに起きる本船自体の危機こそ、ニールを鍛える試練となった。

ジェミニ8号には予定の飛行時間3日間にあらかじめ打ち上げられていたアジェナとドッキングを遂げる任務があり、秒速8センチという慎重な接近を断行、みごとドッキングを遂げた。だがジェミニ8号の船体が右回りにローリングを始め、ニールは回転を制御するために多くの労を費やすことになる。船の回転が激しくなればジェミニ8号自体かジェミニもろともアジェナも分解か爆発の危険があったのだ。操縦を担当したデイヴィッド・スコットと共に事に当たったニールがアポロ11号の船長に再任されたのは、ジェミニ8号での沈着な指揮ぶりに由来すると思われる。

アポロ11号と月面着陸の経緯

『ファースト・マン』©Universal Pictures

肝心の月面着陸の次第だが、1969年7月16日ケネディ宇宙センターを飛び立ったアポロ11号は別に打ち上げられていた月面着陸用の「イーグル」とのドッキングが最初の難関だった。無事ドッキング後にニールはバズ・オルドリン操縦士とイーグルに乗り込み、母船コロンビアにはマイク・コリンズ操縦士が残った(映画では月面撮影に専念したコリンズの活躍は省かれる)。

これに加えてアポロ11号の地球帰還を助ける「機械船」がこの船団のワンセットになっていた。アポロ11号は打ち上げから3日半で月周回軌道に到達した。イーグルに乗り込んだ後、オルドリンは地球からは月の裏側に位置する「静かの海」に軟着陸を断行。以後6時間後にニール、次いでオルドリンが月面に降り立つことになる。

1960年代末までに月面着陸を約束したケネディの目的はこの月面着陸で果たされたが、この快挙を喜んだ現職大統領は、皮肉にもケネディ最大の政敵ニクソンだった。宇宙飛行士等は、人類最初の月面着陸を記した銘板を月に残したが(これも映画では無視されたが、これまた叙事詩的要素の排除)、その銘板にもニクソンの名が残されていた。また前述のように特殊メイクの星条旗を月面に残したが、この旗は立てた場所が帰還のための上昇噴射で倒れてしまう位置だったことを付け加えておこう。

文:越智道雄

『ファースト・マン』は2019年2月8日(金)より全国ロードショー

 

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『ファースト・マン』

「人類が夢に見た景色」を胸に抱き、前人未踏の“未知なるミッション”である月面着陸計画に人生を捧げ、命がけで挑んだ男(ヒーロー)、アポロ11号の船長ニール・アームストロングの壮大な旅路を描く。

制作年: 2018
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