【惹句師・関根忠郎の映画一刀両断】 忘れ得ぬ映画『八甲田山』

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ライター:関根忠郎
【惹句師・関根忠郎の映画一刀両断】 忘れ得ぬ映画『八甲田山』
『八甲田山』©1977 橋本プロダクション/東宝映画/シナノ企画
1977年に公開され観客動員数1位に輝く大ヒットを記録した、日本映画史に残る傑作『八甲田山』。高倉健が主演した重厚な作品が、デジタル・リマスターされた映像とフルオーケストラの演奏で蘇る『八甲田山』シネマ・コンサートが、2019年1月14日(月・祝)に東京・NHKホールで開催される。公開から40年、俳優・高倉健さんにとって『八甲田山』とはどんな作品だったのかを自分に問うてみると……。

偉大な映画『八甲田山』への敬意

1977年6月3日朝日新聞東京本社版夕刊に掲載

映画『八甲田山』は、公開時(1977年)にたった一回見たきりで、以後まったく見返すことがなかった。なぜこの堂々たる大作をリピーターとして見に行くことがなかったのか、まったくその理由が今もって不明だ。僕は多くの映画を万遍なくフォローするよりも、自分が良いと思った作品を2度3度と見返すタイプの人間なのに、この『八甲田山』に限って言えば、「1回こっきりの出会いに終わってしまっているのは何故だろう」と、今、自身に問うてみる。多分それは鑑賞時の並じゃない感動、ズシリときた重量感に圧倒されて、この時の一回限りのリアクションをも大事に記憶し続けたいと切に思ったからだったろう。

今回、この作品に関する原稿を求められて、当然、DVD鑑賞をしておかなくてはと思い、地元のレンタル・ショップに行ったところ、肝心の『八甲田山』は貸出中ですらなかった。ここではもともと『八甲田山』のDVDを置いていなかったのだ。驚きだった。しかも高倉健作品は最上段の棚にズラリと並べられており、手が届かないどころか、作品名すら判読しかねる頭上にあった。仕方なくショップを出ながら、ふと思った。健さん映画があんな天井に押し上げられているのは、もしかすると最近急激にユーザー需要が減少してきているのだろうか。健さんが亡くなって僅か4年しか経っていないのにも関わらず、半ば忘れ去られようとしているのだろうか。この間も目まぐるしいほど人間社会が変わり続け、当然のように映画業界も変貌し続けている。当時、健さんファンだった人々は相当な年配者になって、次第に映画から遠ざかってきていることだろう。過去はどんどん忘却の彼方へ押しやられて行く一方なのだろうか。

わが心の内の『八甲田山』

『八甲田山』©1977 橋本プロダクション/東宝映画/シナノ企画

たった一度の鑑賞だったとはいえ、古いプレスシートやパンフレットを傍らに置いて思い返せば次々と、驚くほど鮮明に作品の全体像が甦ってきた。当時、配給収入が約26億円(25億9,000万円)を記録した大ヒット作だけに、内容その他はかなり知れ渡っていると思うが、簡単に記せば、日露関係の悪化から、対ロ戦争を目前にした悲惨極まりない八甲田雪中行軍遭難事件の全貌を描いた作品だ。零下40度の雪原でも戦闘能力を発揮するロシア軍に比して、そのような経験を持たない日本軍が、酷寒とは何なのかを体験し、雪中行軍の術を学ぶべく、厳冬の八甲田山に2組の中隊が演習に繰り出すというのが作品の開巻。白い地獄といわれる極限状況のなかでの演習と、軍組織と人間の葛藤をも描き切って、全篇力感溢れるダイナミックな超大作として完成し、絶賛を浴びた映画だった。

例えたった一度の鑑賞でも、次から次へとこれほど鮮明に記憶が甦るものなのか。当時のスチール写真が次々と動き出すのだ。これは僕の記憶力のなせる技では決してなく、映画『八甲田山』が持つ作品パワー以外の何ものでもない。全篇、白い雪、雪、雪と黒い軍服の兵士、兵士、兵士とがモノクロームに限りなく近いカラー映像の中で壮絶に葛藤する生と死の乱舞。これは40年前の僕の中に強烈に刷り込まれていた1本の映画が、プレスシートとパンフレットを目にした途端、雪崩のような勢いを以って甦ってきたものと思われる。これは映画力としか言いようがない。よくぞこれほど大きな仕事が、かつて十全に成されたものだと、今更ながらひたすら感嘆する。

撮影3年、これ1本に打ち込んだ高倉健

『八甲田山』©1977 橋本プロダクション/東宝映画/シナノ企画

この作品にまつわる多くのエピソードは、当時の資料やネットに当れば入手できるので、これらは一切省かせて頂くが、やはり書かずにいられないのが高倉健さんのことだ。およそ3年間、他作品の掛け持ちをせずに、CMの仕事も断わって、厳冬の八甲田山を中心にする過酷なロケ―ションに挑んだ彼は、手持ちの不動産を幾つか売り払って生活を維持したというエピソードはよく知られている。

また実際に現場では俳優の仕事以外にも、率先してスタッフとともに場面作りに協力。雪の少なかった最初の冬などは、現場にダンプ5台で運び込まれた大量の雪を、スコップでせっせと積み上げる作業を続けていたという。さらに雪中行進の大ロング・ショットでも、「自分が歩きます」と言って、自ら隊列の先頭に立ったという。このエピソードも当時助監督だった神山征二郎監督の話で広く伝えられていたので、僕もよく知っている。が、こんなことは健さんにとっては、流布されるまでもなく当たり前のことだったのではないか。常に困難な場に立って、極地俳優あるいは辺境俳優とも呼ばれながら、いつも現場の条件作り、地固めなどに気を配っていたのが、高倉健その人だった。沈着冷静にして確かな状況判断力を内に持ち合わせた硬骨の男、弘前歩兵第三十一連隊中隊長・徳島大尉こそ、俳優・高倉健以外には考えられない大成果だったと誰しもそう思う。映画『八甲田山』を何十年振りかで回想しつつ僕もそう思う。当時、東映に在席する身であったにせよ、なぜ自分は『八甲田山』のロケ現場に個人の立場で見学に行かなかったのかとつくづく悔やまれる。見ておくべきときに見ておかなければ、まったく意味がないのだ。

プログラム・ピクチャーから大作時代への転換期

『八甲田山』©1977 橋本プロダクション/東宝映画/シナノ企画

私事に触れることを許して貰えば、僕は高倉健さんが1975年に東映を退社し、フリーの俳優となった以後も、東映社員として働きながら、プログラム・ピクチャーから大作主義への転換期を経験した。東映時代の高倉健さんの映画は個人的には『新幹線大爆破』(1975年)と『神戸国際ギャング』(1975年)が最後で、フリー後の作品『冬の華』(1978年)も宣伝に関わって惹句(コピー)を担当した。従って高倉健作品に触れることができなくなった『君よ憤怒の河を渉れ』(1976年)からは、遥か遠い遠い存在になってしまった。いつかはこうした日が来ると思っていたが、やはり一抹の淋しさを禁じ得なかった。東映在席中の長い間、自分も内心フリーのコピーライターに転じようと思っていたのだが、周囲の事情で決断できず東映に留まった。

このときはもうこれで高倉健作品のコピーは書くことがないのだ、と自分に言い聞かせたが、何という巡り合わせか。『冬の華』から36年後、「健さん映画」に出会うことになった。東宝からの依頼で、映画『あなたへ』(2012年)のコピーを書かせて頂くことになったのだった。僕は東宝試写室で『あなたへ』を見せて頂きながら、終映後すぐに一篇の四行詩のようなフレーズが頭に浮かんできて、それをすぐさま書き留めた。

ありがとう。

人はいつも
伝えきれない
想いを重ねて、
一期一会の旅を続けている。

 

再び映画『八甲田山』へ。

高倉健さんがフリーになったとき、前述のように折しも日本映画業界は2本立て興行を維持不可能に陥り、大作1本立て興行への転換期にあった。書籍「高倉健メモリーズ」(キネマ旬報・刊)によれば、健さんは、掛け持ち出演はしないこと、与えられたその1本を成功に導かなければ、次のオファーがないと覚悟したという。いかにも健さんらしい緊張感に満ちた言葉ではないか。映画作りに対する真っ直ぐな思いが強く感じられる。

そしてさらに高倉健さんの作品選びの根底には、単に題材だけでは選ばずに、人との一期一会の出会いを大事にして、そのときどきのひらめきをも重視する考えが常にあった。そんな決然たるフリーランサー、健さんのもとに訪れた企画が、『八甲田山』だったのだ。遺作となった『あなたへ』に捧げた僕の四行詩は間違っていなかったのだと、今思う。

来年1月の『八甲田山』シネマ・コンサートの成功を切に祈らずにはいられない。

文:関根忠郎

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