黒澤明『デルス・ウザーラ』『乱』……2度にわたり“世界のクロサワ”を救ったのはヘラルド映画だった

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ライター:谷川建司
黒澤明『デルス・ウザーラ』『乱』……2度にわたり“世界のクロサワ”を救ったのはヘラルド映画だった
日本ヘラルド映画の仕事 伝説の宣伝術と宣材デザイン(パイ インターナショナル刊)

【映画宣伝/プロデューサー原正人の伝説 第9回】

日本ヘラルド映画の伝説の宣伝部長として数多の作品を世に送り出すと共に、「宣伝」のみならず、映画プロデューサーとして日本を代表する巨匠たちの作品を世の中に送り出してきた映画界のレジェンド原正人(はらまさと)。――全12回の本連載では、その原への取材をベースに、洋画配給・邦画製作の最前線で60年活躍し続けた原の仕事の数々を、原自身の言葉を紹介しつつ、様々な作品のエピソードと共に紹介していく。

原への取材および原稿としてまとめるのは、日本ヘラルド映画における原の後輩にあたる谷川建司。ヘラルドの黄金期と言われる時期はいくつかあるが、とりわけ連載第1回で紹介した『エマニエル夫人』に始まる一連の大ヒット作品の数々は洋画配給会社が世の中に大きな流行を作り出していくことができた、そんな時代のバイタリティを感じさせる。

第9回目の今回は、日本映画界を代表する存在であるのみならず、世界の巨匠として尊敬の念を一身に集める黒澤明監督と、外国映画の配給会社であった日本ヘラルド映画との不思議な縁――具体的には、その黒澤明監督のピンチを2度にわたり救い、2本の作品を世に送り出した秘話について紹介しよう。

最初の接点はアニメ「平家物語」

黒澤明監督といえば、その88年の生涯で計30本の作品を監督した、世界の巨匠である。その30本の作品のうち、日本ヘラルド映画は2本の作品の製作に深くコミットしているが、実は最初に接点を持った時の企画は流れてしまっている。もしもその企画が実現していたとしたら両者のコラボレーションは3本、実に黒澤作品の1割に及ぶことになっていたかもしれなかったのだ。

日本ヘラルド映画の仕事 伝説の宣伝術と宣材デザイン(パイ インターナショナル刊)

ヘラルドと黒澤明との最初の接点は早くも1969年8月、ちょうど今から半世紀前に訪れていた。当時のヘラルドが、虫プロとのコラボレーションで大人向けの長編アニメーション『千夜一夜物語』(1969年)を“アニメラマ第一作”と称して公開し大ヒットさせていたことは連載第4回で少し触れたが、この大ヒットを受けて、次回作の企画として浮上したのが「平家物語」をアニメ化するというもので、つまり、黒澤明が監修して、手塚治虫が手掛ける作品をヘラルドが製作・配給するという企画だった。黒澤の許に交渉に訪れたのは、もちろん当時の宣伝部長、原正人である。

「黒澤さんがずっと『平家物語』の映画化を希望してらっしゃるのは何かで読んだり聞いたりしてましたので、じゃあ黒澤さんに監修していただいて、『平家物語』をアニメーションで、手塚治虫でやったら面白いだろうっていう、ある意味で極めて素人の、いま思えば恥ずかしい考えなんですが、その打診にのこのこ行ったんですね。そしたら、当時黒澤プロダクションのプロデューサーだった松江陽一さんが黒澤さんは興味を示して下さっているというんで、喜び勇んで手塚治虫に会ってるんです。そうすると手塚さんが“そんなの冗談じゃない”と(笑)。「『平家物語』はアニメにならないよ」って言うんです。たとえば“鎧”があるとして、鎧が動いたら、直垂の色を全部動かさなきゃいかんと。だから「アニメーションは大体みんなそういうのはなくて、割とシンプルにいくんだよ」と。

黒澤明監督が「平家物語」を映画化したいと公言していた話はよく知られているが、もしもそれがアニメとして実現していたとしたら、巨匠・黒澤明が生涯で唯一手掛けたアニメ作品、しかも手塚治虫との夢のコラボということで、世界を席巻するジャパニメーションの歴史上でも特筆される奇跡の作品として語り継がれていたこと請け合いだが……そこは所詮、叶わなかった夢、幻の“黒澤アニメ”がどんな作品になっていただろうと、想像力を膨らませて空想するしかないだろう。

『デルス・ウザーラ』製作を御膳立てする

黒澤明監督とヘラルドとのコラボが最初に実現したのは、黒澤がソ連の映画スタジオ<モスフィルム>で撮った『デルス・ウザーラ』(1975年)のときのこと。その企画が動き出した1970年代の初め頃というと、黒澤明は京都の東映撮影所で撮影を進めていた『トラ・トラ・トラ!』(1970年)の監督の座を20世紀フォックスから解雇された苦難の時期で、翌年に発表した『どですかでん』(1970年)でも興行的に苦戦し追いつめられていた。

一方ヘラルドはその頃、ハリウッドの大作は買えない代わりに、『戦争と平和』(1965~1967年)『チャイコフスキー』(1970年)等のソ連映画、『ネレトバの戦い』(1969年)『抵抗の詩』(1969年)等のユーゴ映画で勝負し成功していたため、古川勝巳社長は何度もソ連・東欧圏に買い付けのため出向いていた。黒澤が米国との仕事で躓いているのを内心忸怩たる思いで見ていた万年映画青年の古川勝巳社長は、ソ連・東欧圏に出張する度に、かの地の映画会社に対して「黒澤さんで映画を撮ってはどうか」と呼びかけていたという。――結果的には、ソ連もユーゴもどちら側も乗り気となり、どちらとの話を進めようか? ということになり、ゴーリキーの『どん底』(映画化:1957年)、ドストエフスキーの『白痴』(映画化:1951年)を翻案映画化するなど、ロシア文学からの強い影響を受けていた黒澤自身がソ連(モスフィルム)を選んだ。

日本ヘラルド映画の仕事 伝説の宣伝術と宣材デザイン(パイ インターナショナル刊)

ヘラルドでは、『どですかでん』でベオグラード国際映画祭に招待された黒澤プロの松江プロデューサーに、その帰路にモスクワへ寄ってもらう段取りを固め、モスフィルム製作、ヘラルドは脚本執筆段階での黒澤を含む日本人スタッフの費用や渡航費など一切を負担する代わりに日本配給権を預かる、という形で『デルス・ウザーラ』の製作が1972年後半にスタートし、1973年3月には正式調印の運びとなった。

ただし、当時の黒澤監督は『トラ・トラ・トラ!』の解任騒ぎ、『どですかでん』の後の自殺未遂騒ぎ、『暴走機関車』プロジェクトの空中フランスが手を挙げたという3つの事件によって、本当に映画を完成させることができるのかどうか不安視されていた。

「モスクワへ映画祭か何かで行ったときに、ソ連映画合作公団総裁のテネシビリという人に会って、雑談の中で“黒澤さんが投げちゃったらどうしましょう?”みたいな話になったんだな。会ったのは確か自殺未遂の事件のあとだったから。テネシビリは、“いや、<亡き黒澤明に捧ぐ>っていう映画を我々が完成させるから安心しろ”みたいなことを言ったのを覚えてる(笑)。それは半分冗談だと思うけど、それくらい黒澤さんに対してみんな不安がってたことは事実だよね」

その後のソ連での過酷な自然条件の中での撮影の様子は「黒澤明 樹海の迷宮」(2015年:小学館刊)に詳しいが、『デルス・ウザーラ』は1975年8月に日本国内で封切られた。当初ヘラルドが期待していたほどの興行成績にはならなかったものの、公開直前の7月にモスクワ国際映画祭グランプリに輝いたのに続いて、翌1976年3月には米国アカデミー賞最優秀外国語映画賞を受賞し、黒澤復活を世界に印象付けた。

修羅場となった『乱』の製作舞台裏

1982年11月に製作発表記者会見が行われた『乱』(1985年)は、黒澤明監督にとって念願の企画であり、そのシナリオは『デルス・ウザーラ』の直後に書いていた。予算のかかる『乱』の企画を実現させるために、黒澤はより娯楽性の強い『影武者』(1980年)を先に手掛けて足掛かりとし、馬の調教、城のロケハンを済ませるという周到な準備をしていたのが功を奏し、フランスが全額出資して製作することが発表されたのだ。だが翌年4月、フランスの為替管理法成立のためゴーモン社/グリニッジフィルム社共同出資による製作は中止になり、8月になって黒澤からヘラルドに対して製作資金を出資してほしいという要請がなされた。

「『乱』は当初、本当に全くやる気なんてなかったんです。黒澤さんは『デルス・ウザーラ』の後でシナリオを書いてましたが、シナリオは読ませてもらっていて、いやすごいな、誰かやってくれたら見たいなと思っていた。その程度だったんですよ。だから、もう作るなんて夢にも思わない。それでフランスが手を挙げたって聞いて、喜んだんですよ。ところが中止になった。中止が決まって半年ぐらいたってからかな、黒澤さんが古川さんのとこに見えたんですよ。それで“手伝ってくれ”って。たぶん、黒澤さんの頭の中では『デルス・ウザーラ』のことを思い出したのかもしれないな」

9月に勝巳社長と黒澤監督との会食の席が設けられ、可能性の調査を託された原正人がパリでグリニッジフィルムのセルジュ・シルベルマンと会った結果、25億円の予算総額のうち1/3はシルベルマンが、残りの17億円をヘラルドが出す形で合意が形成された。ちなみにシルベルマンというのは、ヘラルドが配給して大ヒットさせた『さらば友よ』(1968年)『雨の訪問者』(1970年)のプロデューサーで、その意味ではヘラルドとは縁深い人物なのだが、そのくせヘラルドのことをあまり信用しようとしない老獪なプロデューサーだったという。『乱』を製作するということは『地獄の黙示録』の製作パートナーになる以上の冒険だったが、万年映画青年の古川勝巳社長にとって、黒澤監督から頼りにされ、断るという選択肢はなかったのだろう。12月に製作再開記者会見が行われ、1984年6月にクランクインするに至った。

「あんな修羅場になるとは思わなかったな。なんとなく流れでやることになったんですよ。だからまぁ、考えたらその時に黒澤さん74歳だもんね。あれだけの映画を74歳で仕切るっていうのは、もともと難しいんだよね、体力的にもね。だから撮影日数と実働日数を見ると慄然とするね。撮影日数、要するに拘束日数273日間に対して撮影実数は118日間だったから、半分以上の日数キャメラが回ってないということ。要するに黒澤さんもお疲れになるし、もたないから」

日本ヘラルド映画の仕事 伝説の宣伝術と宣材デザイン(パイ インターナショナル刊)

当初の予算がどんどん超過していく悪夢の中、姫路・熊本・飯田高原などでのロケ撮影を経て、10月からは御殿場に建設した三の城セットでの撮影が始まり、同年12月15日に「三の城炎上シーン」を無事撮影した。……尤もプロデューサーの立場からすると、撮り直しの利かないこのクライマックス・シーンの撮影まではハラハラのし通しだった。

「富士山の5合目に建てた三の城セットの炎上シーンは、季節は夏の設定だったのに、実際に撮影できたのは12月に入ってから。5合目はこの時期ともなると雪に覆われてしまうため、雪かきをして撮ることになったわけです。僕は当時、撮影現場にほぼ日参していたんだけど、日を追うごとに山頂にのみ積もっていた雪が徐々にふもとに向かって下りてきているのを感じて、本当にうまく撮影できるのか、不安が募りました。……ところが撮影当日、雪かきをして、雪が取り除かれたところから水蒸気が立ち上り、出来上がった映像では陽炎のような不思議な効果を見せていたんです」

ディスアドバンテージと思われていた自然条件をも味方に付けてしまったのは、プロデューサーとしての原の持っていた運だったのかもしれない。――1985年2月にクランクアップし、6月の第一回東京国際映画祭のオープニング上映がワールドプレミアとなった『乱』は、少なくとも海外においてはアカデミー賞衣裳デザイン賞(ワダエミ)、全米批評家協会賞最優秀作品賞、ニューヨーク映画批評家協会外国語映画賞、その他の賞を受賞した「巨匠黒澤明の最後の大作」として認知されている。だが、製作費26億円に対して、最終的な配給収入は16.7億円にしか届かなかった。

しかしながら、製作総指揮を務め『乱』公開の翌年に亡くなった古川勝巳社長の心意気でヘラルドが黒澤の映画を作ったということは何事にも代えがたい経験であったし、社員たち一人ひとりにとっても誇りであったことは間違いない。

文:谷川建司

特集:映画宣伝/プロデューサー原正人の伝説

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