『ニュー・シネマ・パラダイス』で頂点に! 単館系アート作品ヒットの方式

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ライター:谷川建司
『ニュー・シネマ・パラダイス』で頂点に! 単館系アート作品ヒットの方式
日本ヘラルド映画の仕事 伝説の宣伝術と宣材デザイン(パイ インターナショナル刊)

【映画宣伝/プロデューサー原正人の伝説 第7回】

1956年から半世紀にわたり存在(後に角川映画が吸収合併)した洋画配給会社、日本ヘラルド映画(代表的な配給作品:『小さな恋のメロディ』『気狂いピエロ』『地獄の黙示録』『ゾンビ』『エルム街の悪夢』『ニュー・シネマ・パラダイス』『レオン』ほか多数)。同社の宣伝部長として数多の作品を世に送り出し、後にヘラルド・エース、エース・ピクチャーズ、アスミック・エースといった映画配給会社を設立した男が原正人(はらまさと)だ。“宣伝”だけでなく、映画プロデューサーとして日本を代表する巨匠たちの作品を送り出してきた、映画界のレジェンドである。

全12回を予定しているこの連載では、本人への取材をベースにその言葉を紹介しつつ、洋画配給・邦画製作の最前線で60年活躍し続けた原の仕事の数々を、ヘラルド時代の後輩でもあった映画ジャーナリスト・谷川建司が様々なエピソードと共に紹介していく。

第7回目の今回は、新たな会社としてヘラルド・エースを立ち上げ、小粒でもきらりと光るアート系作品を扱っていくマーケットを開拓したチャレンジについて紹介したい。

拡大マーケット、“大量宣伝の対極=シェフのレストラン”構想

ヘラルド創成期から宣伝部を率いてきた原正人(当時の肩書は常務取締役・宣伝・企画・製作担当)だが、1980年に公開したヘラルド畢生の大作『地獄の黙示録』を置き土産に、1981年10月、ヘラルド本社の重責を担う立場からヘラルド・エースの代表取締役に専念することとなった。

日本ヘラルド映画の仕事 伝説の宣伝術と宣材デザイン(パイ インターナショナル刊)

ヘラルド・エースは、元々は宣伝の中のクリエイティヴ面だけを担当する別会社として設立していたものだが、原以下の宣伝部が丸ごと移籍する形で、宣伝部を別会社としたのである。新生ヘラルド・エース(以下「エース」)の位置づけについて、原は後にこう定義している。

「拡大マーケット、大量宣伝という当時の風潮の中で、あえて“シェフのレストラン”方式を打ち出し、“自分の目で材料を選び、手作りの味を、少数でも良質な顧客に提供する”いわゆる単館ロードショーを新会社の一つの柱にすえたスタートでした」

一つの柱、ということはもう一つの柱があるということ。それは邦画の製作ということに他ならないが、その話は第8回のテーマにしたい。

さて、当初は“日本ヘラルド映画配給作品の宣伝を独立会社のエースが請け負う”という構想だったものの、1983年にはまたヘラルド本体の中に宣伝部が復活し、二つの配給会社がそれぞれに映画の輸入・配給・宣伝・営業を行っていく体制となった。

その中で、“シェフのレストラン”を志向するエースは、専ら小粒の良品、即ちアート系の作品を配給するという立ち位置だったが、それはつまり、新たなマーケットを開拓しなくてはならない事を意味していた。こうした商業ベースに乗りにくい作品は、1974年から既に岩波ホールが“エキプ・ド・シネマ”という枠組みで上映していたが、エースでは新たに都内興行会社とタッグを組んで作品と劇場、つまりソフトとハードを一緒に育てていくことにした。

日本ヘラルド映画の仕事 伝説の宣伝術と宣材デザイン(パイ インターナショナル刊)

その端緒となったのが、東急レクリエーションと組んで1981年12月に新宿にオープンした<シネマスクエアとうきゅう>である。オープニング作品はニコラス・ローグ監督の『ジェラシー』(1979年:日本公開1981年)だった。同劇場では、一脚7万円するフランスのメーカー・キネット社の豪華な椅子にゆったり座り、入れ替え制で最低4週間は上映するというシステムを採用。他社配給作品の場合も宣伝はエースが請け負う。また、上映作品は作品選定委員の映画評論家である南俊子、河野基比古に委託、さらに劇場で売るパンフレットもハンディサイズの「シネマスクエア・マガジン」を発行、その編集にはエース宣伝部の寺尾次郎(後にフランス語字幕翻訳者として活躍)と、映画評論家の小藤田千栄子があたる、というこだわりの体制で、1980年代のミニ・シアター・ブームを牽引した。

「いつ行ってもお客さんで賑わっている」状況がヒットに拍車をかける

シネマスクエアとうきゅうでの公開作品中、最も大きな意味を持っていたのは1987年12月に公開した『薔薇の名前』に違いない。主演こそ『007』シリーズ(1962年~)のショーン・コネリーだが、監督は当時無名のジャン=ジャック・アノー、題材も修道院を舞台にしたミステリーという宣伝の難しいこの作品が、16週間のロングラン、1億1500万円もの興行収入を記録した。

単館ロードショーでの1億円突破という快挙は、劇場そのものを育て、劇場自体に固定ファンを獲得することで、地味でも力のある作品をじっくり浸透させてヒットに結び付けていく方法論の完成を意味していた。逆の見方をすれば、キャパシティーの限られた単館ロードショーだからこそ、いつ行ってもお客さんで賑わっているという状況を作り出せるとも言える。

「もともと『薔薇の名前』は、全国展開するには少し内容が渋い、単館でやるには権利金が高すぎるというので、しばらく宙に浮いていた作品でした。しかし、作品を扱っていた海外のセールス会社が、権利金はいらないといってきたのです。劇場公開をうまく成功させてもらえれば、あとは当時出はじめていたビデオやテレビへのセールスで価値を生むから、劇場公開に関しては通常なら必要な最低保証金(MG=ミニマム・ギャランティ)なしで預けるといってきたのです。……そこは以前からヘラルドと取引のあった会社で、ヘラルド・エースのトライに興味を持ってくれたのです」

これは、ショウケースとして映画館を使い、劇場公開作品という付加価値を付けて二次利用で利益を上げていくというビジネスモデルだが、『薔薇の名前』の場合は結果的には劇場公開においても当時の単館ロードショー系の新記録となる大ヒットとなったわけだ。

日本ヘラルド映画の仕事 伝説の宣伝術と宣材デザイン(パイ インターナショナル刊)

ミニシアター・ブームはその後、大阪、札幌、福岡、名古屋、仙台などの大都市にも波及していった。そして1987年12月、エースは映画興行会社である旗興行との間でフジテレビと共同運営の<シネスイッチ銀座>をスタートさせた(シネスイッチのスイッチとは邦画と洋画を交互に上映していくことから命名)。既に旗興行とヘラルドとの間で当時、銀座文化劇場という名前だった同劇場のうち、3階にあったキャパシティの小さな銀座文化2のほうをクラシック映画専門館(『ローマの休日』『カサブランカ』のような過去の名作映画のリバイバル上映の専門館)として再生させ大成功していたため、1階のメインの劇場のほうを新たに単館ロードショー劇場として再生させた形だ。この成功により、現在では1階がシネスイッチ1、3階がシネスイッチ2という館名に変更されている。

単館ロードショー史上最大のヒット作『ニュー・シネマ・パラダイス』

日本ヘラルド映画の仕事 伝説の宣伝術と宣材デザイン(パイ インターナショナル刊)

1989年、シネスイッチ銀座では40週間のロングランで興収3億6900万円という、単館ロードショー史上最大のヒット作となった『ニュー・シネマ・パラダイス』を上映、ミニシアター・ブームのひとつの頂点に到達した。

「『ニュー・シネマ・パラダイス』は、ジャック・ペラン演じる主人公の、都会で成功したけれども心が満たされない想い、一番大切であったはずの故郷や家族、青春時代の思い出の大切さに気付いて故郷に帰ってくるという設定が、見る人一人ひとりにどこか自己投影できるノスタルジーによって、あれだけのヒットに結び付いたんだと思います」

単館ロードショーという興行形態、そしてアート系作品を特定の劇場のブランドと共に提案し、劇場を育て、その劇場を支持してくれる観客をも育てていく、というヘラルド・エースの構想はこうして満開の花を咲かすに至った。この時期には他にも都内で単館系劇場が次々と誕生しており、エースの配給作品では西武流通グループのシネ・ヴィヴァン六本木(1983年開館)で、フランシス・フォード・コッポラが製作にかかわったドキュメンタリー『コヤニスカッティ』(1982年:日本公開1984年)が、シネセゾン渋谷(1985年開館)ではヘクトール・バベンコ監督の『蜘蛛女のキス』(1985年:日本公開1986年)が、そしてPARCOスペース・パート3(1981年開館)ではルパート・エヴェレット主演の『アナザー・カントリー』(1983年:日本公開1985年/俳優座シネマテンと共同配給)、アレックス・コックス監督の『シド・アンド・ナンシー』(1986年:日本公開1988年)といった作品が上映されヒットしている。

また、老舗の岩波ホールでは『八月の鯨』(1987年:日本公開1988年)が大ヒットし、シネマライズ渋谷(1986年開館)でもクエンティン・タランティーノ監督の出世作『レザボア・ドッグス』(1991年:日本公開1993年)をヒットさせたほか、東急レクリエーションとは、その後も1989年開館のBunkamura ル・シネマでもコラボレーションを行い、『カミーユ・クローデル』(1988年:日本公開1989年)、『さらば、わが愛/覇王別姫』(1993年:日本公開1994年)、『王妃マルゴ』(1994年:日本公開1995年)等をヒットさせていった。

日本ヘラルド映画の仕事 伝説の宣伝術と宣材デザイン(パイ インターナショナル刊)

……だが、この新たなマーケットも、成熟してくればくるほどライバル会社も増え、状況が変化してくる。

「追従するコンペティターの大量出現とロイヤリティの高騰、ヒットによる劇場の週平均売り上げのノルマの上昇、さらには自分の眼で見てから作品を選ぶという基本原則が崩れ、企画段階でのブラインド・バイが増加するという矛盾が生じ、皮肉にも、ヒットさせることが自分の首を絞める形で跳ね返ってくる悪循環が生じてきたんです」

こうした環境の変化は、やがてエースを増資による新しいパートナーとの提携という方向へ向かわせることになり、エース創設から15周年にあたる1995年には角川映画が経営に参画する形での新会社、エース・ピクチャーズの誕生につながっていったのだが、それはまた稿を改めて紹介しよう。

文:谷川建司

特集:映画宣伝/プロデューサー原正人の伝説

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