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追悼ピーター・フォンダ ~『イージー★ライダー』50周年~ ポスターでたどる“キャプテン・アメリカ”の軌跡

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ライター:#セルジオ石熊
追悼ピーター・フォンダ ~『イージー★ライダー』50周年~ ポスターでたどる“キャプテン・アメリカ”の軌跡

【ポスターは映画のパスポート】映画ポスターにはすべてが詰まっている!

古今東西「お代はお先」が映画の掟だ。観客は観る前にまず窓口で鑑賞料金を払ってから入場する。何を基準に先払いするかは、人それぞれ。スター、監督、ジャンル、新聞・雑誌の批評……それでも、一番の指針になるのはポスターだ。いや、[もしそこにポスターがなかったら]、今から自分が鑑賞するのが[映画]だと認識できるだろうか。演劇かもしれない、テレビかも、講談かも、はたまた漫才か落語か……しかし、それはポスターを見ればわかること。

もし、ポスターのない映画があったとしたら、それは[存在しない映画]だ(どうしてもポスターがない場合、劇場主は手書きでポスターを作るだろう)。

映画ポスターにはすべてが詰まっている。身近にはいない美男美女、見たこともない景色、壮大な物語、度肝を抜くアクション、想像を超えた驚きや笑い、心ふるわせる歌や音楽……。

音と映像で世界中の人々を愉しませる映画。その観客は世界各国にいる。当然、映画の受け取り方にもお国柄が出る。すると、国によって全然味わいの違う映画ポスターが作られることになる。アメリカでは娯楽映画風なのに、東ヨーロッパではシリアスな芸術映画のようなポスターになっていることも……。

シネコン、配信、ネット情報、デジタル・サイネージなど、21世紀の映画業界はデジタル化による世界均一化が進んでいる。とはいえ、昔も今も映画ポスターは、映画の[顔]。ポスターは映画の[パスポート]だ。国によって[パスポート]の色や形は違うにせよ、その役割は全世界共通。

「さあ よってらっしゃい みてらっしゃい いまから映画が始まるよ」

基本的に、大量に印刷された複製品である映画ポスターだが、中には数千万円で取引されるヴィンテージ・アイテムもある。その名前だけでコレクションの対象になっているポスター・アーティストもいる。

芸術品としての価値も認められつつある映画ポスターの魅力を、20世紀の映画の紹介と交えてお贈りする新連載。[お代はいただきません]ので、ごゆっくりお楽しみください。

ポスターで登場人物を表現した『ワンハリ』の巧さ

クエンティン・タランティーノ監督作『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(2019年)は、映画ポスターの楽しさと重要さを改めて教えてくれた。時代の雰囲気を出すための小道具としてだけではなく、登場人物を表現する重要なアイテムにすらなっていたのだ。

 

『ワンス~』の日本では使用されなかったイラスト版ポスターは、『ラウンド・ミッドナイト』(1986年)『張り込み』(1987年)などで知られるスティーヴン・コーニーの描きおろし。コーニーは、ほかにも劇中に登場した架空の映画ポスターをいくつか担当している。

今や、映画はオンラインで情報を得てスマホでチケット予約して観るものらしいが、かつては映画館でポスターを見てから鑑賞するものだった。題名は看板(アメリカでは文字だけのマーキー、日本では絵看板もあった)で知るが、どんな映画なのかは映画ポスターで確認したのだ。アクションものか、恋愛ものか、超大作か、ちょっと変わった小品か……ポスターを見ればだいたいわかった。1970年代ぐらいまでは印刷技術も紙質もいろいろだったので、ポスターの出来で映画の質もだいたい想像できた。宣伝コピーも参考になった。俳優の名前の大きさから役柄だって想像できた。

また、国によって同じ映画でもポスターのテイストが全然違っていたりもする(21世紀以後はほぼ全世界統一イメージだ)。

映画ポスターは「かつてそんな映画があった」証拠でもあり、その作品がどうとらえられていたか、どう売り出されていたかを示す歴史の証人でもある。のちの世では名作と呼ばれていても、公開当時はB級映画扱いだった例はいっぱいある。逆に、現在の評価は低くとも公開当時は何種類もポスターが作られて、相当宣伝費をかけられていた大作だったことがわかる作品もある。

追悼ピーター・フォンダ アメリカン・ニューシネマの顔“キャプテン・アメリカ”逝く

というわけで、映画ポスターから映画をもう一度味わう新連載は、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』に登場した映画ポスターから……とおもっていたら、思わぬ訃報が飛び込んできた。2019年8月16日、ピーター・フォンダが逝ってしまった。享年79。1969年に世界を席巻したアメリカン・ニューシネマの代表作『イージー★ライダー』のワイアット、またの名“キャプテン・アメリカ”が、1969年のハリウッドへの愛が充満した『ワンハリ』世界公開中に旅立った。当然、革の上下でハーレーダビッドソンを駆って。ガソリンタンクにはしこたま(コカイン密売で得た)カネが隠されているので、天国でも楽しくやっていることだろう。

『イージー★ライダー』EASY RIDER
日本版半裁ポスター 1969年コロムビア映画 映倫番号44346
Japan B2 72cm×58cm Columbia Pictures Japan

ピーター・フォンダ、ヘンリーの息子・ジェーンの弟

Petr Fonda
1940年2月23日 – 2019年8月16日

ピーター・フォンダは、名優ヘンリー・フォンダの息子で、姉ジェーンもアカデミー賞を二度受賞した名女優だ。父ヘンリーは『若き日のリンカン』(1939年)でリンカーン大統領、『荒野の決闘』(1946年)でワイアット・アープを演じたほか、『怒りの葡萄』(1940年)『十二人の怒れる男』(1957年)など、アメリカ映画を代表する名作の数々に主演した、まさにアメリカを代表するハリウッド・スターだった。

だが、私生活では浮気症で、ピーターが10歳の時に母フランシスは心を病んで自殺した。ピーター自身も拳銃で自殺未遂して、生死の境をさまよう重傷を負う。さらにピーターの周囲には悲劇が続く。家族ぐるみのつき合いだったマーガレット・サリヴァンの娘でピーターの初恋の相手だったブリジットが自殺し、大学で出会った親友も自ら命を絶った。ピーターはその後、コメディ『タミーとドクター』(1963年)でハリウッド映画にデビュー。同時期にケネディ大統領の若き日の活躍を描いた戦争伝記映画『魚雷艇109』(1963年)の主役候補にもなるが、選に漏れる(役を得たのはクリフ・ロバートソン)。

勇敢な戦争ヒーローを演じるには当時のピーターは線が細すぎるのは一目瞭然なのに、候補になったのはおそらく“ヘンリー・フォンダの息子”という看板あってのことだったのだろう。この当時のピーターの個性と体験を活かして配役している(としか思えない)のが、ロバート・ロッセン監督の遺作『リリス』(1964年)だ。精神病院を舞台にしたこの野心作でピーターは、同じ患者である美女ジーン・セバーグ(発音はシーバーグ)に恋して自殺してしまう若者を演じた。

『リリス』LILITH
アメリカ版1シートポスター 1964年
US1Sheet 104cm×69cm 1964 Columbia Pictures Coporation NSS# 64/316

バイク&ドラッグで一躍人気スターに

その頃、父ヘンリーは『西部開拓史』『史上最大の作戦』(1962年)『危険な道』『バルジ大作戦』(1965年)などのハリウッド大作に欠かせない顔として活躍。姉ジェーンも若手美人女優としてキャリアを積みフランス映画に主演、ハリウッドでも『逃亡地帯』(1966年)でマーロン・ブランドと共演するまでになっていた。ピーターはといえば、ハリウッド・スターの道からは脱落し、低予算のB級映画ばかり作っていたAIP(アメリカン・インターナショナル・ピクチャー)で辣腕を振るうロジャー・コーマンに出会っていた。

コーマンは以前からチープなホラー映画を連発し、ジャック・ニコルソンらの若手俳優をうまくこき使っていたが、60年代中盤に流行したヒッピーや暴走族=へルズ・エンジェルなどの若者文化を映画に取り入れようとしていた。そして、コーマンが製作・監督した暴走族映画『ワイルド・エンジェル』(1966年)が大ヒットする。主演はヘンリーの息子ピーターとフランク・シナトラの娘ナンシーだった。

ピーターはたちまち若者文化を代表する新スターとなる。続いてコーマンは若者たちに流行していた新ドラッグ“LSD”をテーマに『白昼の幻想』(1967年)を作る。しかし、コーマンによる幻想場面の演出が古臭すぎると感じたピーターと共演のデニス・ホッパーは、カメラを持って町へ飛び出して16ミリカメラで撮影。コーマンは映画の一部に採用する。

『白昼の幻想』THE TRIP
アメリカ版1シートポスター 1967年
US1Sheet 104cm×69cm 1967 American International Pictures NSS# 67/248

アメリカ映画を永遠に変えた『イージー★ライダー』

『白昼の幻想』が縁で、ピーターのアイディアをホッパーがふくらませ、ふたりは二人三脚で『イージー★ライダー』を作ることになる。製作・主演ピーター・フォンダ、監督・主演デニス・ホッパー。脚本にはふたりに加えて『博士の異常な愛情』(1964年)のテリー・サザーンが加わった。

『イージー★ライダー』EASY RIDER
アメリカ版1シートポスター 1969年
US1Sheet 104cm×69cm 1969 Columbia Pictures Coporation NSS# 69/282

「男は、アメリカを探しに行った。そして どこにもみつけられなかった」

『イージー★ライダー』のアメリカ版初版ポスターに刻まれた名コピーは、「A MAN=ひとりの男」と“単数”になっている。公開当時『イージー★ライダー』はピーター・フォンダの映画だった。カンヌ映画祭で新人監督賞を受賞するデニス・ホッパーも、アカデミー助演男優賞にノミネートされるジャック・ニコルソンも、初公開時は宣伝するに値しないと見られていた。『ワイルド・エンジェル』の主演であり、革ジャン・サングラスにハーレーダビッドソンというピーター・フォンダのいで立ちこそが、若者たちにアピールする最大の要素だったのだ。

『イージー★ライダー』は自主的に製作された作品をハリウッドのメジャー会社(コロムビア)が配給した最初のケースとなった。当然、プロデューサー兼主演スターとしてピーターは、利益配分を一番多く得られる契約をしており、これがのちにホッパーと取り分をめぐってもめる原因となったのだが、それはまた別の話。こうした製作・配給システムは現在では当たり前だが、その嚆矢にして、それまでの独占的ハリウッド・システムをぶち壊したのが『イージー★ライダー』だった。

革新的な映画音楽『イージー★ライダー』

いわゆる楽団が演奏する映画音楽ではなく、既成のロック曲を今でいうミュージックビデオやPV(もちろんそんなものは当時はない)のように背景音楽として使うという『イージー★ライダー』の手法はまさに革新的であり、映画界に衝撃を与えた。テーマ曲になったステッペンウルフの「ワイルドで行こう」などはピーターとデニスの聴いていたレコードからチョイスされた。

そして、普段からギターを持ち歩き弾いて歌うのが好きだったピーターは、ボブ・ディランの曲「イッツ・オーライト・マ」の使用許可を頼むと同時に、あわよくば主題歌を作ってもらおうとボブ・ディランを試写室へ招待する。映画を見たディランは興奮した様子で「傑作だ」と褒めてくれたが、曲の使用許可はくれなかった。そして、そばにあった紙に歌詞を数行書いてピーターに渡すと「あとはロジャーにまかせれば大丈夫」と言い残して帰ってしまった。こうして生まれたのが元バーズのロジャー・マッギンが歌う「イッツ・オーライト・マ」と、エンディングに流れる主題歌「イージー・ライダーのバラード」だ。

おそらくディランは、『イージー★ライダー』という映画は気に入ったが、どうせチープなバイク映画のひとつとして消えていくだろうと考えていたのではないだろうか。製作当時の段階で、『イージー★ライダー』は誰にも注目されていなかったのだ。

「ワイアット・アープ&ビリー・ザ・キッド」は「キャプテン・アメリカ&バッキー」だった⁉

ピーターは主人公コンビの名を、愛読していたコミック雑誌から「キャプテン・アメリカ」と「バッキー」としていたが、マーベル社から許可がおりず、撮影終盤になって「ワイアット(・アープ)」と「ビリー(・ザ・キッド)」に変更された。ワイアット・アープは、父ヘンリーがジョン・フォードの名作『荒野の決闘』で演じた実在の保安官であり、西部の伝説的ヒーローだ。実はピーターは企画段階から『イージー★ライダー』はバイク版西部劇であり、主人公2人組はジョン・ウェインとウォード・ボンド(ウェイン同様ジョン・フォード映画の常連)をイメージしていたという。

ところが、皮肉なことに『イージー★ライダー』に熱狂したアメリカの若者たちは、ピーターをカウンターカルチャーのシンボルへと祭り上げ、なぜか「キャプテン・アメリカ」と呼ぶようになり、役名はすっかりそれに落ち着いてしまった。若者たちにとっては、キャラクター名の商標問題などどうでもよかったのだ。

『さすらいのカウボーイ』THE HIRED HAND
フランス版ポスター 
French Affiche 50cm×38cm 1971 C.I.C.
Design: Rene Ferracci

『イージー★ライダー』が世界中で大ヒットした後、デニス・ホッパーは“ペルーでビリー・ザ・キッドの映画を撮っている撮影隊のスタントマン”の物語『ラストムービー』(1971年)を作り、ピーターは『荒野の決闘』をモデルにした、ゆったりとしたリアルなニューシネマ西部劇『さすらいのカウボーイ』(1971年)を監督、主演することになるのだが、ピーター・フォンダ人気は世界中で盛り上がっていた。アメリカでは、ピーター出演作(『ワイルド・エンジェル』『白昼の幻想』『世にも怪奇な物語』)を集めて「フォンダ・フェスティバル」なる3本立て映画プログラムが組まれ、わざわざポスターまで作られたほどだった。

「フォンダ・フェスティバル(『ワイルド・エンジェル』『世にも怪奇な物語』『白昼の幻想』)」FONDA FESTIVAL
アメリカ版1シートポスター 1970年
US1Sheet 104cm×69cm 1970 American International Pictures

<後編へ続く>

文:セルジオ石熊

【ポスターは映画のパスポート】

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