世界から注目を浴びる団塚唯我監督の長編デビュー作『見はらし世代』が、10月10日(金)より公開される。このたび、本作をカンヌで鑑賞した早川千絵(映画監督)ら著名人から絶賛コメントが到着した。
“初主演”黒崎煌代 × “長編デビュー”団塚唯我監督
今年5月、「第78回カンヌ国際映画祭」の監督週間にて、オリジナル脚本・初長編作品で挑み、日本人史上最年少の26 歳の若さで選出されたのは、短編『遠くへいきたいわ』 (ndjc2021) で注目を集めた団塚唯我監督。主人公の青年・蓮と、結婚を控え将来について悩む姉。そして母の喪失をきっかけに姉弟と疎遠になった、ランドスケープデザイナーの父を、渋谷の街を舞台に、関係をふたたび見つめ直そうとする彼らを、普遍的な家族の風景から、都市の再開発がもたらす影響までを繊細に、そしてきわめて軽やかに、ただ、決して切実さは失わずに描き出した。観客に開かれた、新人監督の瑞々しい感性による新しいスタイルの日本映画が誕生した。
再開発が進む東京・渋谷を舞台に主人公・蓮を演じるのは『さよなら ほやマン』で映画デビューし、「日本批評家大賞」新人賞を受賞した若き技巧派俳優の黒崎煌代。「私のキャリアを最初から近くで観ていてくれた団塚監督だからこそ100%の信頼をもって撮影に臨むことができました」と信頼を寄せる団塚監督初長編作品にて、自身も初主演という大役に挑んだ。父親・初を演じるのは、悪役からコミカルなキャラまで幅広い役を演じ、多数の作品で存在感を発揮する遠藤憲一。母親・由美子をドラマ・映画・舞台・モデルなど幅広い分野で活躍する井川遥、姉・恵美を数々の映画新人賞に輝く若手実力派の木竜麻生が演じている。
主人公・高野蓮(黒崎煌代)は胡蝶蘭の配送運転手として、日々、東京の街を周回する。ランドスケープデザイナーである父、高野初(遠藤憲一)は10年前、家族旅行の最中、建築コンペの最終選考に残ったことから、母、由美子(井川遥)との口論の末、仕事場へのとんぼ返りを選択する。その決断は結果的に家族4人がそろう時間を以降、なくしてしまう。
<コメント>
浅倉奏(Bunkamuraル・シネマ 渋谷宮下 番組編成)
自分しか知らないはずのおまじないの言葉を唱えられているようで、驚いた。わかり合えないひとり同士であるからこそ、わかり合えないという一点で、またいつか私たちは交われるのかもしれない。どんなに景色が変わっても消えない、消せない灯りとこの街の記憶。それに包まれて生きるたくさんの「ひとり」に、映画が届いてくれるならと願わずにはいられなかった。
小川紗良(文筆家・映像作家・俳優)
この不思議なタイトルに誘われ、映画が観終わるころには「ああ、私って見はらし世代だったんだ」と腑に落ちていた。効率的で合理的な都市の移ろいが、等身大でそこにある。その無機質さのなかで、あまりに人間らしい彼のまなざしが、胸に焼きついて離れない。
児玉美月(映画批評家)
いつまで経っても再開発が終わらない〈街〉と、永遠に埋まらない喪失を抱えた〈家族〉——そこから溢れてしまった者たちとわたしたちは今ふたたび出会い直すべきなのかもしれない。この映画の女たちはどこかカラッとしている一方、男たちは涙を流し弱さを吐露する。何にも縛られない見はらしのよい表現が広がるこの作品に、日本映画の新たな展望を見た。
渋谷慶一郎(音楽家)
父権性や男らしい寡黙さ、不器用であることの肯定といった、この現在には何の意味も効力も持たない、しかし映画的かつ物語的になりやすい素材を、この若い監督は爽やかに残酷に切り捨てていく。その荒削りな「新しい景色」の今後に期待したい。
荘子it(Dos Monos)
“Brand New Landscape”という英題と、邦題の「見はらし」という言葉の開放感と共に、その裏に「裏・見はらし」=「恨みはらし」の陰がじっとりと張り付いている。この、「過去を忘れるな」と「過去に囚われるな」を同時に訴える切実さは極めて個人的なところから出発していながら、最後にそれを「世代」と呼ぶことに、静かな決意表明を感じる。従順でない素直さでもって、全てをフラットに取り込みながら生真面目でもある、軽さと重さを兼ね備えた新たな映画の時代を期待せずにはいられない。
瀧本幹也(写真家・撮影監督)
衝撃だった。
新しい才能の誕生を、まさに目撃してしまった。
街の鼓動、若者たちの息遣い、時代のきしむ音。
それらすべてをひとつの映像に凝縮し、観る者の心を揺さぶる。
渋谷を描きながら、同時に「家族」という普遍的なテーマ、そして「いまの日本」を描ききった圧倒的な作品。
世界がいち早く気づいた——カンヌでの喝采は必然だ。
団塚唯我、この新しい才能から目を離すことはできない。
中山英之(建築家)
この映画の主たる被写体はきっと、風景(ランドスケープ)なのだと思います。
もっと言うとそれは、明治通りの此岸から彼岸に見やる「みやしたパーク」。建築設計の世界に身を置く立場からも、行政代執行とその先に現れた極度に管理されたこの場所を、それでも「公園」と呼称し続けることへの違和感は、真っ先に表明せねばなりません。けれど同時に、これほどの設計機会をそれを理由に袖にできる建築家もいまい。
映画という時空の中に監督は、そんな矛盾をそのままに見はらす、視点場を組み上げてしまった。
建築家には決して設計することのできないランドスケープが見える場所を。
二ノ宮隆太郎(映画監督)
とにかく団塚唯我監督の信じられない優しさが詰まっています。
だけどもその中にとてつもない厳しさが入っています。
他には無い特別なものになっているのはそのバランスもあるのだろうと感じます。
劇場をあとにしたときに経験したことのない不思議な感覚に浸りました。
早川千絵(映画監督)
痛いとか悲しいとか、いろんなことをポーカーフェイスでやり過ごせる大人になった自分の、まだぎりぎり柔らかくある部分をぎゅっと掴まれるような映画だった。この若き監督が平熱を保ちながら人生を諦観するような、その深く正確な眼差しに強烈な魅力を感じた。さらにはセリフが秀逸で、痺れる瞬間の連続。「こういう日本映画を見たかったのだ!」と、映画館を出た後もしばらく静かな興奮が続いた。
三宅唱(映画監督)
彼にしか撮れない物語を引き受け、諦めなかった団塚監督に対して、黒崎煌代がそのスリリングな表情で、木竜麻生が逞しい眼差しで、遠藤憲一が震えるような声や全身で、井川遥が背中や微笑で応えている。俳優たちの新たな魅力と同時に、この街この国の形、そしてさまざまな世代が見えてくる。
『見はらし世代』©︎2025 シグロ / レプロエンタテインメント
『見はらし世代』は10月10日(金)よりBunkamura ル・シネマ 渋谷宮下、新宿武蔵野館、アップリンク吉祥寺ほか全国公開