数万人の女性たちの人生を奪った「マグダレン洗濯所」とは何だったのか?世界が絶賛した『決断するとき』の背景を知る
アイルランドの“聖なる監獄”マグダレン洗濯所とは
起源と変質
マグダレン洗濯所の起源は18世紀のイギリスにさかのぼる。1758年にロンドンで設立された最初の施設は、貧困や売春に追い込まれた“堕落した女性”を保護・更生させる慈善施設として始まった。名称は、6世紀に教皇グレゴリウス1世によって誤って“娼婦”と同一視されたマグダラのマリアに由来する。
しかしアイルランドでは、1922年のイギリスからの独立後、事態は大きく変質していく。新たに成立したアイルランド自由国はカトリック教会と強固な関係を築き、1937年の憲法には「女性の理想的な役割は家庭における母」という条項まで盛り込まれた。この国家とカトリックの融合が、“堕落した女性”の定義を際限なく広げる温床となった。
『決断するとき』© 2024 ARTISTS EQUITY. ALL RIGHTS RESERVED.
誰が収容されたのか
本来は売春婦を対象としていたはずの施設に、やがてあらゆる立場の女性・少女が送り込まれるようになった。未婚のまま妊娠・出産した女性、婚前・婚外交渉を疑われた女性、「色目を使う」「軽薄すぎる」とみなされた少女、さらには性的・身体的虐待の被害者、孤児や家族が養えなくなった子ども、身体・知的障害のある女性、軽犯罪を犯したとされた者まで、その対象は果てしなく広がっていった。
送り込む側もまた多岐にわたり、家族、警察、裁判所、社会福祉機関、病院、聖職者など、社会のあらゆる機関がこの制度に加担。1922年から1996年の間に収容された女性・少女は少なくとも1万人以上にのぼるが、記録の不備もあり実態はさらに多いとされている。
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施設内での実態
施設に入れられた女性たちを待ち受けていたのは、想像を絶する環境だった。入所と同時に名前を取り上げられて番号で管理され、髪を切られ、私服を没収され、地味な制服を着せられた。「自分の出身地や家族について話してはならない」と命じられ、外部との手紙のやり取りは検閲・禁止された。家族の面会はほとんど認められず、たとえ許可されても修道女の監視下に置かれたという。
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日中はひたすら洗濯・アイロンがけ・梱包・縫製などの重労働を強いられ、賃金はゼロ。社会保障への積み立ても一切行われなかった。修道会はこの無償労働によって生まれた収益を、ホテル・病院・学校・政府機関などから受注した洗濯物の代金として懐に収めていた。国家もまた、議会・大統領官邸・各種公共機関の洗濯物をこれらの施設に委託しており、強制労働の直接的な受益者だった。
規則違反や労働拒否に対する罰則は苛烈そのもの。食事の剥奪、独房監禁、長時間の強制正座、髪を剃るなどの屈辱的な儀式、そして日常的な身体的暴力……。施設の外壁には割れたガラスが埋め込まれ、窓には鉄格子がはめられ、女性たちは文字通り社会から完全に切り離されていた。
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逃げることも、死ぬことも……
脱走を試みた女性は警察に捕まえられて連れ戻され、より遠方の別の施設に移送されるという罰を科された。釈放される日がいつなのか、そもそも釈放されるのかどうかさえ、誰にも知らされなかった。もし釈放されるとしても、それは予告なく、手持ちの金もなく、着の身着のままで放り出される形であった。
多くの女性が生涯をこの施設の中で終えた。ダブリンのドニーブルック施設では、1954年から1964年の選挙人名簿に登録された女性の半数以上が施設内で死亡していたことが記録の照合で判明している。1993年には、ダブリンの修道院敷地内から155人分の遺体が埋葬された集団墓地が発掘され、社会に大きな衝撃を与えた。
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国家の責任と遅すぎた謝罪
1996年に最後の施設が閉鎖された後も、長い間、国家は正面から責任を認めなかった。2013年にようやくアイルランド首相ケニーが公式謝罪を行い、800人以上の生存者に補償金が支払われたが、運営にあたった修道会は補償基金への拠出を拒否し、記録の完全な開示にも応じなかったという。
聖なる名のもとに行われたこの制度的な人権侵害は、国家・教会・社会が一体となって女性を抑圧した歴史の象徴として、今も語り継がれている。保身やことなかれ主義による「見て見ぬふり」が結果的に多くの人命を奪っている今こそ、知っておきたい事実/観ておきたい映画だ。
『決断するとき』は3月20日(金)よりTOHOシネマズ シャンテほか全国順次公開中