ジョシュア・オッペンハイマーが最新作『THE END(ジ・エンド)』を語る
ジョシュア・オッペンハイマーという名前にすぐにはピンと来なくても、“裁かれなかった犯罪者が自分がしでかしたことに気づいた瞬間”を捉えたドキュメンタリー映画の金字塔『アクト・オブ・キリング』(2012年)の監督だと聞けば、映画好きならば次作を観たいと思うだろう。しかもそれが、ティルダ・スウィントンが主演する地球崩壊後の世界を描いたミュージカルなのだ。
オッペンハイマー監督は最新作『THE END(ジ・エンド)』のプレスリリースの中で、気候変動を引き起こした石油成金が買おうとしている豪華シェルターを見学したことについて語っている。その不条理さや醜悪さから逃避するために『シェルブールの雨傘』(1964年)を観て、「これこそ次にやるべきことだ」と思ったのだと。その真意について、監督に話を聞いた。
※注意:物語の内容に一部触れています。
『THE END(ジ・エンド)』©Felix Dickinson courtesy NEON ©courtesy NEON
「僕らは自己欺瞞のせいで気づかないうちに境界を越えてしまうかもしれません」
――お会いできてうれしいです。じつは『ルック・オブ・サイレンス』(2014年)で日本にいらしたときにインタビューさせていただいたんですよ。
おや、よろしくお願いします。
――監督は、ゼロ年代にインドネシアで労働者のパームオイルのプランテーションのドキュメンタリーを制作していたとき、環境活動に参加されていたわけですよね。そのころすでに、いまのような気候危機を予見していらっしゃいましたか。
はい。『THE END(ジ・エンド)』(以下、『THE END』)は我々がどのように自分を騙しているか、そうした自己欺瞞にどれほど依存しているかについての映画です。もうすぐ2026年になろうとしていますが、石油業界は1950年代には調査を始めていて、気候変動について知っていたんです。
僕が最初に人類への脅威として気候変動について学んだのは小学校のときで、1980年代です。それから40年も経っているのに、ドナルド・トランプが「掘っちゃえよ、ベイビー、掘っちゃえよ」(“drill, baby, drill.” ※気候変動を否定して石油を掘りまくれという選挙時のフレーズ)などと言い出したことで再び拍車がかかり、ギリギリの瀬戸際まで来てしまっています。“断崖の淵”という感じですよ。それなのに我々は、皆が気がつきさえすれば魔法みたいにすべてうまくいくと言い続けているわけです。『THE END』で「私たちの未来は明るい♪」と歌っているみたいにね。
この作品はまさに“自己欺瞞”についてですが、僕らは自己欺瞞のせいで気づかないうちに境界を越えてしまうかもしれません。気がつく間もなく境を踏み越えて、突然落ちているかもしれないんです。アメリカンコミックのキャラクターで”ワイリー・コヨーテ”っているでしょう? ロード・ランナーを追いかけている奴です(※どちらもアニメ『ルーニー・テューンズ』のキャラクター)。コヨーテはいつも崖を走り抜けて、気がつかずに走り続けて空中にいるのにまだ気がつかなくて、下を見てやっと……あんなふうに感じています。
僕らはまだ断崖の淵を越えてはいないけれど、集団的な否定や自己欺瞞や自分に嘘をつく能力は人間らしいと言えると同時に、人類を滅ぼすものでもあるんです。
『THE END(ジ・エンド)』©Felix Dickinson courtesy NEON ©courtesy NEON
「我々人類が“いかに自分たちに嘘をつくか”についての映画」
――『THE END』には気候危機や超富裕層の自己欺瞞だけでなく、私たちが見聞きしていることがいろいろ描かれていますね。ティルダが2回歌う「人がいたときは距離を置いていた♪」という歌詞は、人種隔離や分断も思い出させます。それに、多くの人にとって身に覚えがある事柄も描かれていますよね。ジョージ・マッケイが演じている息子は、母と母の友人を批判しますが、彼の批判は彼の特権の上に成り立っているものでもあります。でも、これは私たちが親世代に対してよくやっていることです。比較的罪が軽く見える彼と少女(演:モーゼス・イングラム)だって、自分の子に未来の孤独を押しつけている。でも次世代に環境汚染を押しつけるのも、私たちがやっていることです。
うんうん、そうですね。
――もっと身近なこともあって、ティルダが両親を思い出して歌う歌は、私も母に同じことをしていたと思いました。これほど多くの要素を、どのように入れ込んでいったのでしょうか。
すごくいい質問をありがとうございます。気候危機について話してきたけれど、この作品に登場する家族は“人類最後の家族”なんですよ。僕にとって、登場人物を設定しながら脚本を書いていた段階から最も重要だったのは、「この家族はどこにでもいる、誰もがなりうる家族でもある」ということでした。脚本を書くのは、そういう意味で感情を使う5面のチェスをやっているような感じで、すごく難しかったんです。
いつもどこかで何かが起こっていて、どの登場人物も常に誰かに影響を与えている。前面に出すにしろ、そうしないにしろ、彼らは普遍的な家族なんだというレイヤーを生かし続けて書くことが重要でした。政治や環境についての台詞でも、そこは示唆しています。気候危機の映画だけれど、そこにいつもあるのは愛する人々と自分、その両方に誠実でいられるだろうか? というジレンマです。
この映画を作っているとき、よく個人的なことについて話しました。僕の父が最初にこの映画を観たとき、彼はジョージ・マッケイと一緒に観たんですが、そこで鑑賞後に「ジョージ、君はこの映画のためにうちの息子から学習したんだね?」と言ったんですよ。ジョージは微妙に笑って、でも僕をベースにしたとは言いたくないわけです。彼はすごく深みのある俳優ですから、それが僕にとってすごく個人的な事柄であることも、僕をモデルにするのが個人的すぎることも、わかっていたんです。
僕が7歳のときに母と父が離婚して、アメリカの反対側に引っ越しました。両親それぞれに語りたい物語があって、どちらも家族の離散にうまく対処しようとしていました。僕は父に話しかけるんですが、まだ子どもだし、会話が何にもならずに終わって、ものすごく埋め難い隔たりの中に落ちこむのが怖くて、父が聞きたがるようなことを言ったものです。母にも、彼女が聞きたがるようなことを言いました。
すると、それぞれの話は完全に矛盾してしまう。「どうしたらパパが喜ぶ? パパはOKだ」「どうしたらママが喜ぶ? ママもOKだ」……それで僕は八方美人みたいになってしまう。自分が嘘つきみたいな気分になりますよね。そこで自分にとっての真実を探そうとして、自分自身に対して正直でいないと誰のことも本当には愛せないんだと気づきました。そこに辿り着くのにこれまでの人生と同じくらい時間がかかって、いまでも苦労しながら学んでいます。
『THE END(ジ・エンド)』©Felix Dickinson courtesy NEON ©courtesy NEON
日本には、まさに「本音と建前」という言葉がありますよね。仮面を被らないといけない、建前に合わせなければいけないような場面では、家族と一緒にいるときでも、一人で鏡に向かっているときでも、生きることや本当に愛することを諦めなければならない。僕の両親は二人とも80代なので、義理の母にもしものことがあったら面倒を見てほしいと父は言うかもしれないけれど、それが彼にとっていいことなのかどうかもよくわからないし、シンプルに考えてうまくいかないだろうと思う。でも、それを父に直接言うのは難しすぎる。だから、それについては絶対に話をしない。何も行動しない。父を老人ホームに入れることが一番なんだと納得したふりをして、それについて話し合うことは二度とない。
……こういう決定が悲劇的なのは、それで親との関係性を失ってしまうからです。人生の最後に、ものすごく基本的なことに対して誠実でいられないとしたら、その関係性は空々しいものになってしまう。人生を意味あるものにする愛のある関係性が、一種の地雷地帯のように、話も満足にできない場所になってしまうんです。だから僕にとってこの映画は基本的に、我々人類が“いかに自分たちに嘘をつくか”についての映画なんです。そうして最後の家族、人類全体の最後の家族のアレゴリー(比喩/寓意)の中に、人生が塩坑(※塩を採掘する鉱道)のように空洞の殻になった人々を見ることになる。塩坑の中というのは、本当に生物が生きられない場所なんです。
それはまったくの上っ面、まったくの幻想、まったくの建前で、いつも彼らは愛を求めて苦しんでいる。映画では、そこに少女が現れて全員を目覚めさせるんですが、ここで彼らには真実に直面する勇気があるのか? という疑問が出てくる。自分の中の悪や、過去にしてきたことに直面できるのか。そして愛することができるのか? これがこの映画の物語のすべてです。
この人類最後の家族にとっては、すべてが遅すぎた。でも、地球崩壊後を生きる家族にとって遅すぎたということが、僕らにとっても遅すぎるということにはなりません。僕らみんなが気づかないようにしているのは、僕らも死ぬということです。禅の格言がありますね。「年老いること、病を得ること、親しいものの死、己の死、これらはすべて我らの自性だ」と。では、どのように生きるべきなのか? これこそこの映画が観客に投げかけようとしている疑問なんです。
「彼らにとっての拷問になるような“美”がほしかった」
――なぜ、この映画をこんなに美しく撮ったんですか? 黙示録的な映画は通常、もっと悲惨ですよね。富裕層が美しいものを好んで美しい家に住みたがるのもわかるのですが、その美しさがなんら彼らの助けにはなっていないように感じて……ほかに何か、この映画の美しさが表現しようとしているものがあるんでしょうか。
これもいい質問です。ありがとう。ミュージカルの決まりごとですが、登場人物が“本当すぎること”を言うときは、必ず歌いますよね。登場人物にとっての真実が、台詞では重すぎる。そういうとき、ミュージカルの登場人物は歌で感情を爆発させるんですが、まあ、それって嘘ですよね。だからこの映画をミュージカルにしたんですよ。
ミュージカルというのは、しばしば登場人物がセンチメンタルな嘘を歌うんだけれど、音楽の美しさを通して観客にその嘘が“真実なんだ”と信じこませるように誘導している。だから自分たちに嘘をついている家族に、それが使えると思ったんです。この映画の登場人物が歌うのは、突然幸せを感じたからではなくて、少女の登場によってそれまで築き上げてきた幻想にヒビが入って、ストレスを受けたから歌うんですね。現実に飲み込まれないように、ちょっと気分を上げようとしているわけです。この美しい嘘で、自分たちを納得させようとして。
『THE END(ジ・エンド)』©Felix Dickinson courtesy NEON ©courtesy NEON
映画のクライマックスに向かうとき、家族はもう自分たちを納得させることに失敗していて――じつは冒頭からすでに失敗しているけれども――自分たちには素晴らしい未来が待っていて、意味がある生活を送ってこられたんだと信じ込める瞬間もある。もし観客もそうだとしたら? と考えて、観客にはそこに逃げこませず、登場人物が向き合わされているよりは多少なりとも希望があるうちに、いまどういう状況にあるのかに向き合わせようとしたわけです。
ですから、ミュージカルの歌というものが“美しい嘘”を体現しているんだということに気づいたとき、「OK、このシェルターを地下にいることを忘れられるような場所にしてやろう」と思ったんですよ。そこは美しくなければならない。だから彼らは辺りを見回して、僕たちはなんて美しい家を建てたんだろう、なんて美しい人生を送ってきたんだろう、と言える。でも、その場所に囚われていることに気づく。
美が恐怖になり得ることもよくあると思います。母が壁の絵を眺めるシーンは、豪華で美しい絵画が壁にかけてあって実際の風景のように見えます。でも風景そのものより美しいのに、空虚で寒々しさを感じさせます。そして壁の肖像画が彼女を見返すので、まるで責められているようだと言い出す。「この絵はいつも私を睨んでいる、私を責めているんだ」と。そう、私はまさに“美”がほしかったんです。物語が進むにつれて、それが彼らにとっての拷問になるような。事実、彼らは現実から逃げることに失敗しているんです。
――そうですよね。まるで終身刑のように見えました。
そう、ファベルジェの卵(※インペリアル・イースター・エッグ)か何かに閉じこめられているみたいでしょう? これ以上に怖いことはない。アメリカでは、終身刑はあまりにも残酷だから憲法で禁止するべきじゃないかという話が出ているくらいです。僕もずっとそう考えてきました。人を一生閉じこめておくなんて残酷なことなんですよ。
『THE END(ジ・エンド)』©Felix Dickinson courtesy NEON ©courtesy NEON
『THE END(ジ・エンド)』
環境破壊により地表が居住不可能となってから25年。裕福な一家——母、父、そして20歳の息子——は、改装された塩抗の奥深くにある豪華な地下シェルターで、数人の仲間と共に隔離生活を送っていた。仲間とは、母の旧友、 老齢の執事、そして医師。地下で半生を過ごしている息子は、見たことのない外の世界を体験したいと切望し、歴史上の出来事や場所の縮尺模型を作り続けている。
家族は規則正しい生活を送っている。安全訓練、屋内プールでのフィットネス、地下壕と小さな前哨基地の維持管理、母が持ち込んだ美術品の管理などが日常業務だ。また季節の移ろいを表現するため地下壕の装飾にも手を抜かない。母は全てを完璧に見せようと執着し、装飾やレイアウトの細部にまでこだわる。息子は父の回顧録執筆を手伝っている。母の友人は息子に、自分の息子が癌で病に伏せたため、地下シェルターでは生き延びられなかっただろうと語る。息子は孤独と、世界を体験したいという渇望に苛まれている。
一行はある日、坑道で意識を失った少女を発見し、どうやってこの場所を見つけたのか尋問するため連れ帰る。少女は人間が住めない地表の様子を語り、家族が川を渡ろうとして死に、自分だけが生き残ったと告白する。その後、彼女はトラウマに苛まれる。一行は少女を地表へ追い返すことに決めるが、少女は逃げ出し、地下壕を駆け抜けて彼らをかわす。彼らは致し方なく、少女を地下シェルターに迎え入れることを決断する。
少女は地下シェルターでの生活に適応するのに苦労する。母親は少女を疑い、父親に懸念を口にすると同時に、少女に彼らの生活について教え、彼女について探りを入れる。その間に、少女と息子は徐々に絆を深めていく……。
監督・共同脚本:ジョシュア・オッペンハイマー
出演:ティルダ・スウィントン ジョージ・マッケイ モーゼス・イングラム マイケル・シャノン
| 制作年: | 2025 |
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2025年12月12日(金)よりヒューマントラストシネマ有楽町、新宿シネマカリテほか全国公開