「誰かの安楽死」が“自分ごと”になる、美しき人生讃歌 ベネチア最高賞受賞『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』
アルモドバルが極めた、人生のひとつの選択
こうして書いていくと、徹底してシビアな作品かと思われそうだが、ペドロ・アルモドバル監督の作風を知っていれば、別次元の「映画を観る歓び」に溢れることを期待するはず。そしてその期待は、美しくクリアされる。アルモドバル監督はこれまでも『オール・アバウト・マイ・マザー』(1998年)では息子を交通事故で亡くす母、『トーク・トゥ・ハー』(2002年)では昏睡状態になった2人の女性、『ペイン・アンド・グローリー』(2019年)では脊髄の痛みに苦しむ映画監督……と、悲劇的トピックを起点にしながら、作品は軽やかでエモーショナルな印象。それこそがアルモドバルの真骨頂だった。ストーリーとは裏腹に、超カラフルなプロダクションデザイン、つまり視覚的に、悲しみさえも人生の希望に転化させるのが、アルモドバルのスタイルだ。
この『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』も一目でアルモドバル作品だとわかるのは、家具や小道具の数々のおかげ。マーサ役のティルダ・スウィントンは「撮影で使われた赤や緑色のカウチ、ユニークなランプなどの家具には、ペドロのアパートから持ってきた私物も多かった」と告白している。アルモドバル作品はこうしたデザインを愛でるのもひとつの楽しみだが、この視覚的効果によって、シビアな設定も心地よく受け止められる安心感となることを、本作は改めて証明する。
『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』©2024 Warner Bros. Entertainment Inc. All Rights Reserved. ©El Deseo. Photo by Iglesias Más.
一方で、これまでのアルモドバル作品と大きく異なるのは、全編に漂う、スリリングで張り詰めた空気かもしれない。マーサの強い覚悟は前半からずっと貫かれるのだが、彼女が本当にその決断を実行するのか。それはどんなタイミングなのか。映画を観ているわれわれはイングリッドとともに、つねに緊張感に襲われる。アルモドバル作品でここまで後半の展開にドキドキさせられるのは異例かもしれない。マーサ本人の心情はもちろん、「その時」が訪れたらイングリッドはどう対処するのか。そちらにも心が持っていかれて終始、ザワザワと胸騒ぎが続く。その結果、ハイレベルの集中力が保たれるのが本作の持ち味だ。
本作には原作が存在するが、アルモドバルはその核を重視しながら、自分なりに脚本化したことを語っている。キャリアの長いアルモドバルにとっても、英語がメインの長編作品は本作が初のチャレンジだった。
『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』©2024 Warner Bros. Entertainment Inc. All Rights Reserved. ©El Deseo. Photo by Iglesias Más.
2人の名優が表現する“最期”、心に積み重なる“余韻”
そして本作の成功に欠かせなかったのが、メインの2人を演じたキャスト。マーサ役のティルダ・スウィントンは、もともと超スレンダーなボディの持ち主なので、病と闘う姿に違和感なくフィットする。そのうえで自らの重大な決意に対し、決して揺らがない強靭な意思や、病に対する精神的苦痛、混乱までを全身で表現する。人間を超えて、どこか神のような崇高さを放つ俳優としての魅力が本作で最大限に生かされた。これは観てのお楽しみだが、終盤のあるシーンではスウィントンの驚くべき才能に目に見張ることになるだろう。
『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』©2024 Warner Bros. Entertainment Inc. All Rights Reserved. ©El Deseo. Photo by Iglesias Más.
イングリッド役のジュリアン・ムーアは、“受け止める”側、つまり映画を観るわれわれの視点と一体化する演技に挑んだ。要所でイングリッドは溢れる感情を押し殺しながらマーサに接するが、こうした抑えた表現にムーアの真の実力が見てとれる。スウィントン、ムーアというオスカー女優による絶妙なセリフのやりとりから、2人の女性キャラの言葉では表せない信頼関係、友情が伝わってくるのは、さすがの一言!
愛した男性との苦い思い出、戦場ジャーナリストで世界を飛び回った日々、そして一人娘との関係……と、マーサの過去も盛り込まれながら、ゆっくり浮き上がってくるのは、彼女の人生への“讃歌”だ。さまざまな困難も経験しながら、自分の生き方を最後までコントロールしようとするマーサに、どこか一人の人間としての理想の姿を見出す人も多いのではないか。
『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』©2024 Warner Bros. Entertainment Inc. All Rights Reserved. ©El Deseo. Photo by Iglesias Más.
作中に何度か引用されるのが、ジェイムズ・ジョイスの短編小説「死者たち」(「ダブリン市民」の一編)と、その映画化、ジョン・ヒューストン監督の遺作『ザ・デッド/「ダブリン市民」より』(1987年)。同作で象徴的に出てくる「雪」を、アルモドバル監督もこの『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』でも、繊細の極みのような演出で使っている。
ゆっくりと降り注ぐ雪のように、この映画の余韻は静かに、いつまでも心に積み重なっていく。マーサの人生への喝采のような本作の余韻は、われわれ誰もがたどる人生の来し方、行く末へ地続きとなる。
美しい映画を観た――。そんな後味をじっくり噛み締めてほしい。
文:斉藤博昭
『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』は2025年1月31日(金)より全国公開
『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』
かつて戦場ジャーナリストだったマーサと小説家のイングリッドは、若い頃同じ雑誌社で一緒に働いていた昔からの親友同士。何年も音信不通だったマーサが末期ガンと知ったイングリッドは、会っていない時期を埋めるように病室で語らう日々を過ごしていた。そんな中、治療を拒み自らの意志で安楽死する事を望むマーサは、人の気配を感じながら最期を迎えたいと願い、“その日”が来る時に隣の部屋にいてほしいとイングリッドに頼む。悩んだ末に彼女の最期に寄り添うことを決めたイングリッドは、マーサが借りた森の中の小さな家で暮らし始める。そして、マーサは「部屋のドアが閉まっていたら私はもうこの世にはいないーー」と言葉を残し、短くかけがえのない人生最期の数日間が始まるのだった。
監督/脚本:ペドロ・アルモドバル
出演:ティルダ・スウィントン、ジュリアン・ムーア、ジョン・タトゥーロ、アレッサンドロ・ニボラ
制作年: | 2024 |
---|
2025年1月31日(金)より全国公開