2024年6月、出版大手KADOKAWAのグループがランサムウェアによる大規模なサイバー攻撃を受けた。動画配信サービス「ニコニコ動画」は長期にわたって停止し、出版事業の流通にも影響が及んだ。だが、この事件が社会に残した傷は、システムの停止だけではなかった。攻撃者が流出させたとされる情報は、SNSや匿名掲示板で次々と転載され、同社は拡散行為そのものに対して法的措置を取る方針を表明した。最終的に、外部に漏洩したことが確認された個人情報は約25万人分にのぼった。
この事件は、本稿の問いを象徴している。社会を混乱させる本質は、セキュリティを破られて情報が漏れることなのか。それとも、漏れた情報、あるいは真偽すら定かでない情報が、メディアやSNSを通じて拡散されることなのか。
結論を先に言えば、筆者はそのどちらでもないと考えている。漏洩は引き金であり、拡散は増幅器である。しかし、火薬そのものはもっと別の場所にある。それを確かめるために、四本の映像作品を手がかりに、社会学と社会心理学の知見を重ねながら考えていきたい。
漏洩がなくても、社会は揺れる
最初に確認しておきたいのは、社会の混乱は情報漏洩を必要としない、という事実である。
2016年4月、熊本地震の直後、「動物園からライオンが逃げた」という投稿が写真付きでSNSに出回った。写真は海外で撮影された無関係のものだったが、投稿は短時間で大量に共有され、動物園には問い合わせが殺到した。投稿者はのちに偽計業務妨害の疑いで逮捕されている。2024年1月の能登半島地震でも、実在しない住所からの救助要請や、閲覧数を稼ぐ目的とみられる虚偽の投稿がX上に相次ぎ、本当に助けを求める声が埋もれる危険が指摘された。
どちらの事例でも、何ひとつ「漏れて」はいない。それでも社会は確かに揺れた。
この現象を、社会心理学は早くから説明してきた。米国の心理学者ゴードン・オルポートとレオ・ポストマンは1947年、流言の広がりやすさは、その話題の「重要性」と「曖昧さ」の積に比例するという定式を示した。重要で、しかも確かな情報がないとき、人は流言に飛びつく。社会学者タモツ・シブタニはさらに一歩進めて、流言を「即興のニュース」と呼んだ。公式の情報経路が機能しなくなったとき、人々は手持ちの断片をつなぎ合わせて、集団で状況を解釈しようとする。流言は病理ではなく、不確実さに対する社会の正常な反応だというのである。
デジタル時代に入って、その反応は桁違いの速度を得た。マサチューセッツ工科大学のソローシュ・ヴォスギー、デブ・ロイ、シナン・アラルは2018年、科学誌『サイエンス』に、2006年から2017年までのツイッター上の約12万6000件の情報の連鎖を分析した論文を発表した。虚偽のニュースは事実よりも約70%リツイートされやすく、事実が1500人に届くまでには虚偽のおよそ6倍の時間がかかった。そして注目すべきことに、ボットは真偽を問わず同じ割合で情報を拡散しており、虚偽をより速く広めていたのは人間だった。新奇さと感情の強さが、人の「共有したい」という衝動を駆動していたのである。
『スノーデン』――漏洩は常に悪なのか
一本目は、オリバー・ストーン監督の『スノーデン』(2016年)である。米国家安全保障局(NSA)の契約職員だったエドワード・スノーデンが、政府による大規模な通信監視の実態を記録した機密文書を持ち出し、2013年に香港でジャーナリストに託すまでを描いた。
この作品を本稿で取り上げるのは、「漏洩=悪」という等式に揺さぶりをかけるためだ。スノーデンの行為は、国家の側から見れば重大なセキュリティ侵害であり、市民の側から見れば、知られざる監視の実態を明るみに出した告発だった。同じ一つの漏洩が、立場によって正反対の意味を持つ。
フランスの思想家ミシェル・フーコーは、看守の姿が見えないまま囚人を常に見張りうる監獄の構造「パノプティコン」を通じて、見られているかもしれないという意識が人を内側から従わせる権力のあり方を論じた。社会学者デイヴィッド・ライアンは、ジグムント・バウマンとの対話『私たちが、すすんで監視し、監視される、この世界について』で、現代の監視が国家の塔からではなく、私たちが日々差し出すデータの流れの中で作動していることを示した。スノーデンが暴いたのは、その流れの裏側にある巨大な貯水池だったと言える。
ここで見落としてはならないのは、スノーデンの文書が社会にもたらした混乱の「質」である。文書は彼自身がネットに放流したのではなく、グレン・グリーンウォルドやローラ・ポイトラスらジャーナリストの手で、報道機関の編集判断を経て、段階的に公表された。情報の取捨選択と文脈づけという「編集」のフィルターが、少なくとも一枚は挟まっていたのだ。だからこそ、あの漏洩は暴動ではなく、監視と自由をめぐる国際的な議論を生んだ。
翻ってKADOKAWAの事件では、流出したデータが加工も検証もないまま転載され続けた。同じ「漏洩」でも、社会に流れ込む経路の違いが、結果の違いを決めている。
『グレート・ハック』――漏洩と拡散が一つになるとき
二本目は、ネットフリックスのドキュメンタリー『グレート・ハック:SNS史上最悪のスキャンダル』(2019年)だ。英国の選挙コンサルティング会社ケンブリッジ・アナリティカが、性格診断アプリを通じて最大8700万人分のフェイスブック利用者のデータを取得し、それを政治広告の精密な標的設定に用いていた問題を追っている。
この事件の特異さは、厳密な意味での「ハッキング」がほとんど存在しないことにある。データは、利用者が気軽に答えた診断クイズと、当時のプラットフォームの緩い仕様を通じて、いわば正面玄関から持ち出された。そして持ち出されたデータは、今度は人々の心理的な弱点を突くメッセージを「拡散」するために使われた。ここでは漏洩と拡散が、別々の事象ではなく、一つの循環としてつながっている。
社会心理学者でもあるショシャナ・ズボフは『監視資本主義の時代』で、人間の行動から余剰のデータを抽出し、行動を予測し、さらには誘導することで利益を上げる経済の論理を描いた。ノーベル経済学賞を受けた心理学者ダニエル・カーネマンが示したように、人間の判断の多くは、速く直感的な「システム1」によって下されている。感情に訴える短いメッセージは、熟慮の回路である「システム2」を素通りして、まっすぐに届く。
作品の中で、米国の大学教員デヴィッド・キャロルは、自分について同社が何を持っているのかを知るため、英国で法的手段に訴える。彼の闘いが示しているのは、データの漏洩とは、単に「情報が外に出る」ことではなく、自分を説明する権利、つまり自己物語の主導権を他者に奪われることだという事実である。
『ブラック・ミラー』「Shut Up and Dance」――脅しの正体は「拡散への恐怖」
三本目は、テクノロジーの暗部を描く英国発のアンソロジードラマ『ブラック・ミラー』のシーズン3(2016年)から、「秘密(Shut Up and Dance)」を選んだ。
十代の少年ケニーは、パソコンに入り込んだ不正なプログラムによって、ウェブカメラ越しに誰にも知られたくない姿を撮られてしまう。正体不明の相手から届くのは、「言うとおりにしなければ、この映像をお前の知り合い全員に送る」というメッセージ。彼は命じられるまま見知らぬ場所を走り回り、やがて取り返しのつかない行為にまで追い込まれていく。
この物語で、攻撃者が握っている武器は、厳密には「漏洩した映像」そのものではない。それが「広まったら」という予期、つまり拡散への恐怖である。カナダ出身の社会学者アーヴィング・ゴッフマンは、人が他者の前で保とうとする自己の体面と、それが崩れたときに貼られる「スティグマ」の力を論じた。ケニーを動かしているのは、ゴッフマンが描いた、社会的な顔を失うことへの根源的な怯えだ。
現実のサイバー犯罪も、まさにこの心理を突く方向に進化してきた。近年のランサムウェアは、データを暗号化して身代金を要求するだけでなく、「払わなければ盗んだ情報を公開する」と迫る二重恐喝が主流になっている。攻撃者は、漏洩そのものよりも、その後に社会が示す反応――顧客の怒り、報道、株価、そしてネット上の拡散――を人質に取っているのである。
『終わらない週末』――最後に崩れるのは「互いへの信頼」
最後に、2023年のネットフリックス映画『終わらない週末』(原題 Leave the World Behind)を取り上げたい。監督は、ハッカーを主人公にしたドラマ『MR. ROBOT/ミスター・ロボット』の生みの親、サム・エスメイルである。
ニューヨーク郊外の貸し別荘で休暇を過ごす一家のもとに、ある夜、家の持ち主を名乗る黒人の父娘が訪ねてくる。都市で停電が起きたという。テレビも携帯電話もつながらない。やがて上空から外国語のビラがまかれ、浜辺には巨大なタンカーが乗り上げ、道路では自動運転の車が次々と衝突して積み重なっていく。
この映画の本当の恐ろしさは、サイバー攻撃の派手な映像にはない。通信が途絶え、何が起きているのかわからない状況のなかで、登場人物たちが互いを疑いはじめることにある。母親アマンダは、訪ねてきた男性が本当に家の持ち主なのかを最後まで信じきれない。その疑いの根には、人種や階層をめぐる、この社会がもともと抱えていた亀裂が透けて見える。
劇中、マハーシャラ・アリ演じる家主のG・Hは、ある種の国家転覆の筋書きを語る。まず標的の国の通信を断って孤立させ、次に偽情報と混乱を同時多発的に起こし、最後は国民同士を争わせる。そうなれば攻撃者は、あとは手を下す必要すらない――。オルポートとポストマンの定式に当てはめるなら、通信の遮断は「曖昧さ」を最大化し、生存への脅威は「重要性」を最大化する。流言が燃え広がる条件が、意図的に整えられているのだ。
ドイツの社会学者ニクラス・ルーマンは、信頼を「社会の複雑性を縮減する仕組み」と捉えた。私たちは、銀行のシステムも、ニュースの真偽も、隣人の素性も、いちいち自分で確かめはしない。信頼があるからこそ、確かめずに済ませて日常を回していける。その信頼が崩れたとき、人は世界の複雑さを丸ごと一人で引き受けなければならなくなる。『終わらない週末』の登場人物たちが陥ったのは、まさにその状態だった。
本質は「漏洩」でも「拡散」でもない
四本の作品を通して見えてきた構図を整理しよう。
『スノーデン』は、漏洩が必ずしも社会を壊すわけではなく、それが社会に流れ込む経路と編集のあり方が帰結を左右することを示した。『グレート・ハック』は、データの抽出と情報の拡散が一つの循環として人々の判断を揺さぶる時代を描いた。『ブラック・ミラー』は、攻撃者の真の武器が漏洩そのものではなく、拡散への恐怖であることを突きつけた。そして『終わらない週末』は、最後に崩れるのがシステムではなく、人と人、人と制度のあいだの信頼であることを描いた。
ドイツの社会学者ウルリッヒ・ベックは『危険社会』で、現代のリスクは目に見えず、その大きさは専門家の知識とメディアを通じて社会的に「定義」されると論じた。サイバー攻撃もまた、技術的な事件である以上に、社会がそれをどう知り、どう語り、どう反応するかによって被害の輪郭が決まる出来事である。
だから、冒頭の問いに対する筆者の答えはこうなる。社会混乱の本質は、漏洩でも拡散でもなく、それらが流れ込む先にある「信頼の基盤」の脆さにある。漏洩は引き金を引き、拡散は炎を大きくする。だが燃えるのは、もともと社会に積もっていた不信と曖昧さという乾いた薪なのだ。
この見方は、組織を率いる立場の人々に実務的な示唆を与える。セキュリティ専門家ブルース・シュナイアーが長年説いてきたように、セキュリティは製品ではなくプロセスである。防御の技術に投資することはもちろん欠かせない。だが同じだけ重要なのは、事故が起きたとき、いかに速く、正直に、曖昧さを減らす情報を出せるかだ。オルポートの定式が教えるとおり、曖昧さを減らすことは、そのまま流言の燃料を断つことになる。そして、その言葉が信じてもらえるかどうかは、事故の前に積み上げてきた信頼の残高で決まる。
私たち一人ひとりにも、できることはある。流出した情報や真偽のわからない投稿を「念のため」と共有する指先が、攻撃者の筋書きの最後の一手を担っているかもしれない。ヴォスギーらの研究が示したように、虚偽を速く遠くへ運んでいたのは機械ではなく人間だった。社会の信頼を守る最後の防壁もまた、人間の判断なのである。
主な参考文献・資料
KADOKAWA「ランサムウェア攻撃による情報漏洩に関するお知らせ」(2024年)
G・W・オルポート、L・ポストマン『デマの心理学』(岩波書店)
T・シブタニ『流言と社会』(東京創元社)
S. Vosoughi, D. Roy, S. Aral, “The spread of true and false news online,” Science, 2018
M・フーコー『監獄の誕生』(新潮社)
Z・バウマン、D・ライアン『私たちが、すすんで監視し、監視される、この世界について』(青土社)
S・ズボフ『監視資本主義の時代』(東洋経済新報社)
D・カーネマン『ファスト&スロー』(早川書房)
E・ゴッフマン『スティグマの社会学』(せりか書房)
N・ルーマン『信頼』(勁草書房)
U・ベック『危険社会』(法政大学出版局)
B・シュナイアー『セキュリティはなぜやぶられたのか』(日経BP社)