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「悪人の味方」は誰の敵なのか?『映画 九条の大罪』が映し出す、法と道徳のあいだに落ちた人々

「悪人の味方」は誰の敵なのか?『映画 九条の大罪』が映し出す、法と道徳のあいだに落ちた人々
※イメージ画像

ダークヒーローとして消費する前に考えたい、刑事弁護と「使い捨てられる若者」の現実――

凶悪な事件の容疑者が逮捕されると、SNSには決まって同じ言葉が並ぶ。「こんなやつを弁護する弁護士の気が知れない」「弁護士も同罪だ」。弁護人の氏名や事務所が晒され、懲戒請求が呼びかけられることもある。

真鍋昌平の漫画『九条の大罪』は、その「気が知れない」弁護士を主人公に据えた作品である。半グレ、ヤクザ、前科者。世間から見放された依頼人ばかりを引き受ける弁護士・九条間人。2026年4月にNetflixシリーズとして実写化され、国内の週間視聴ランキングで4週連続1位を記録した。その続きを描く完全新作が、2027年1月に劇場公開される。

配信ドラマのヒットを受けた映画化という産業的な文脈を脇に置いても、この作品が広く受け入れられている事実は興味深い。厳罰を求める声がこれほど強い社会で、なぜ「悪人の弁護士」の物語が支持されるのか。

『ウシジマくん』から20年、舞台は金融から法へ

真鍋昌平は『闇金ウシジマくん』で、2000年代の多重債務社会を描いた。違法な高利貸しのもとに転がり込む人々の姿を通じて、消費者金融が全盛だった時代の欲望と転落を記録した。

その後、貸金業法の改正で上限金利は引き下げられ、ヤミ金融の取り締まりは強まった。では、追い詰められた人々はいなくなったのか。そうではない。搾取の形が変わっただけだ。『九条の大罪』が描くのは、その後の世界である。SNSで集められた若者が特殊詐欺や強盗の実行役になる。行き場のない人が、住居と引き換えに生活保護費を吸い上げられる。交通事故の被害者家族が、加害者側の巧みな弁護によって十分な償いを得られない。

主人公が闇金業者から弁護士に替わったことは、時代の変化を正確に映している。現代の搾取は、法の外側ではなく、法の隙間で行われる。違法と合法の境界を知り尽くした者が勝ち、知らない者が負ける。そこでは、法律の知識そのものが武器であり、商品になる。

「依頼人を選ばない」という思想

九条は、道徳的な善悪で依頼人を選ばない。ひき逃げをした半グレにも、最善の法的助言を与える。その結果、被害者が泣くことがあっても、だ。パートナーとなるエリート弁護士の烏丸は、その流儀に衝撃を受け、自分の正義とのあいだで揺れる。公表されている映画版の情報では、二人の決別から物語が始まり、九条自身に逮捕状が突きつけられるという。

九条の姿勢は、冷酷に見える。だが、これは刑事弁護の原則を極端な形で示したものでもある。日本国憲法は第37条で、刑事被告人が弁護人を依頼する権利を保障している。自分で依頼できないときは国が弁護人をつける。どれほど憎むべき罪を犯したとされる人間にも。

なぜそこまでするのか。国家が個人を逮捕し、裁き、刑罰を科すとき、両者の力の差は圧倒的である。捜査機関は人員と権限を持ち、被疑者は身柄を拘束されている。その不均衡を少しでも埋めるために、被告人の側だけに立つ専門家が要る。弁護人が被告人の言い分を尽くしてなお有罪と認定されたとき、はじめて刑罰は正当性を持つ。弁護人が世間の空気を読んで手を抜けば、冤罪はもっと増える。

「悪人を弁護するな」という声は、裏返せば、誰が悪人かは裁判の前にわかっている、という前提に立っている。その前提こそが、適正な手続きを掘り崩す。九条という人物は、観客の道徳感情を逆なですることで、この原則の居心地の悪さを突きつけてくる。

加害者と被害者が入れ替わる場所

本作のもうひとつの核は、九条のもとに来る「悪人」の多くが、かつての弱者だという点にある。

ここ数年、警察が「匿名・流動型犯罪グループ」と呼ぶ集団による事件が相次いでいる。SNSや求人サイトで「高収入」「即日払い」といった文句に応じた若者が、個人情報を握られ、脅されて、詐欺の受け子や強盗の実行役をさせられる。指示役は海外や匿名アプリの向こうにいて、顔も名前もわからない。捕まるのは末端だけである。

実行役の若者は、被害者に対しては紛れもない加害者だ。高齢者から老後の資金を奪い、ときに命まで奪う。同時に彼らは、犯罪組織にとっては使い捨ての部品でもある。背景を追えば、借金、家族との断絶、学校や職場からの脱落といった事情が出てくることが多い。

原作に登場する半グレの壬生や、その周辺の若者たちは、この構図の中に生きている。地元の先輩後輩という逃れがたい上下関係。施設や崩壊した家庭で育ち、頼れる大人がいなかった過去。彼らは被害を受け、やがて被害を与える側に回る。そして法律は、その連鎖の最後の一コマだけを切り取って裁く。

映画版では、壬生の手下がヤクザの若頭の息子を誤って拉致してしまうところから事態が動くと伝えられている。暴力団対策法と暴力団排除条例で従来の組織が弱体化した後、その空白を埋めるように半グレが台頭した。旧来の秩序と新興勢力の摩擦は、現実の裏社会でも起きてきたことだ。

なぜ今、この物語が支持されるのか

SNSでは厳罰を叫ぶ人々が、なぜ配信では九条に引き込まれるのか。矛盾に見えるが、根は同じかもしれない。

ひとつは、制度への不信である。法律は自分たちを守ってくれない、うまく立ち回った者だけが得をする、という感覚が広がっている。九条は、その不信を否定しない。法は道徳ではない、と彼は示す。法律は正しい者の味方ではなく、使い方を知っている者の道具だ。その身も蓋もなさが、きれいごとに飽きた観客には誠実に映る。

もうひとつは、自己責任論への疲れである。転落した人間は努力が足りなかったのだ、という説明を、この20年、私たちは浴び続けてきた。だが非正規雇用が働く人の4割近くを占め、一度つまずけば立て直しが難しい社会で、転落は他人事ではなくなった。九条の依頼人たちに、観客は「明日の自分」の影を見ている。

そして、九条には一貫した規律がある。依頼人を裏切らない。金のために魂を売らない。善悪の基準が溶けた世界で、自分の流儀だけは曲げない人物に、人は惹かれる。それは、何が正しいのかわからなくなった時代の、倫理への渇きの表れでもある。

配信から映画へ、という回路

産業面にも触れておく。本作は、Netflixでの全話一挙配信から9か月後に、東宝配給で劇場公開される。制作はTBS系の制作会社、監督は『花束みたいな恋をした』などで知られる土井裕泰である。

かつて、地上波ドラマの映画化は日本映画の稼ぎ頭だった。いまは、配信で世界に届けたシリーズを、国内では劇場で完結させるという流れが生まれつつある。地上波では描きにくい暴力や性、裏社会の題材は配信で表現の幅を得て、熱心な視聴者を育て、その観客を劇場に連れてくる。

これは社会派の作品にとって、追い風であると同時に試練でもある。スポンサーへの配慮から解放される一方で、世界市場で通用する刺激の強さが求められる。暴力描写が過激になるほど、裏社会は現実から切り離された「ジャンル」として楽しまれやすくなる。闇バイトに手を染める若者の描写が、警告として届くのか、かっこよさとして届くのか。その境目は細い。

被害者の側に立つ者はいるのか

九条が加害者の権利を守り抜くとき、その向こう側には必ず被害者がいる。原作は、そこから目をそらさない。交通事故で家族を失った遺族が、加害者側の弁護活動によって、納得のいかない結末を迎える。観客は九条の腕前に感心しながら、同時に、遺族のやり場のない怒りを見せられる。

日本の刑事裁判で、被害者は長く「証拠の一つ」として扱われてきた。法廷で意見を述べることも、被告人に質問することもできなかった。2008年に被害者参加制度が始まり、一定の重大事件では、被害者や遺族が法廷に入り、被告人に直接質問し、求刑について意見を述べられるようになった。それでも、課題は多い。

とくに深刻なのは、損害賠償である。裁判所が加害者に賠償を命じても、加害者に資力がなければ、実際には支払われない。日本弁護士連合会などの調査では、殺人などの重大事件で、命じられた賠償額のうち実際に支払われた割合はごくわずかにとどまるという結果が出ている。判決という紙だけが残り、被害者は経済的にも追い詰められる。国が支給する犯罪被害者等給付金は2024年に引き上げられたが、交通事故の自賠責保険などと比べて低いという指摘は続いてきた。被害者が早い段階から弁護士の支援を受けられる公的な制度も、ようやく整備が進められている段階である。

加害者には、憲法が弁護人を保障している。被害者には、それに並ぶ保障がなかった。九条への反感の根には、この非対称への怒りがある。それは弁護士個人に向けられるべきものではなく、被害者支援を後回しにしてきた制度に向けられるべきものだ。

法を知らない者から負けていく

もうひとつ、本作の世界を成り立たせている条件がある。登場人物の多くが、法律を知らないことだ。

闇バイトに応募する若者は、受け子は罪が軽い、初犯なら執行猶予がつく、未成年なら捕まらない、といった誤った情報を信じている。実際には、特殊詐欺の末端でも実刑になる例は多く、強盗に加われば長期の刑が待っている。生活に困った人は、生活保護の申請が権利であることを知らず、怪しい業者に頼る。借金を抱えた人は、債務整理という手段があることを知らず、さらに高利の金に手を出す。労働者は、未払いの賃金を請求できることを知らない。

日本の学校教育では、契約、借金、労働、刑事手続きといった、生きていくうえで欠かせない法律の知識を学ぶ機会が乏しい。2022年に成年年齢が18歳に引き下げられ、高校生のうちに一人で契約を結べるようになったが、消費者教育が十分に追いついているとは言いがたい。知識は、家庭環境によって大きく差がつく。困ったときに「弁護士に相談しよう」と思いつく家庭と、そもそも弁護士という選択肢が頭に浮かばない家庭がある。

無料の法律相談や費用の立て替えを行う公的な窓口として、日本司法支援センター(法テラス)がある。だが、その存在を、もっとも必要としている人が知らない。九条のような弁護士が裏社会で必要とされるのは、表の社会の法的支援が、底辺まで届いていないからでもある。

「かっこいいダークヒーロー」で終わらせないこと

勧めたいのは、九条を「かっこいいダークヒーロー」として消費するだけで終わらせないことだ。

第一に、烏丸の視点を手放さないこと。彼の葛藤は、観客の葛藤の代理である。被害者の涙を前にして、それでも加害者の権利を守ることに意味があるのか。作品はおそらく、どちらが正しいという答えを出さない。出さないまま持ち帰るのが、この作品の正しい受け取り方だろう。

第二に、画面の端にいる人々を見ること。九条に救われる依頼人の陰には、救われない被害者がいる。犯罪被害者への経済的支援や、損害賠償を実際に受け取れる仕組みは、日本ではまだ十分とは言いがたい。加害者の弁護が手厚いことが問題なのではない。被害者の支援が同じだけ手厚くないことが問題なのである。

第三に、現実の刑事弁護に目を向けること。資力のない被疑者には国選弁護人がつくが、その報酬は労力に見合わないと長く言われてきた。九条のような腕利きを雇えるのは、金を持つ者だけだ。作中で彼が半グレから報酬を得ていることは、皮肉にも、弁護の質が資力に左右される現実を映している。法の下の平等を本気で考えるなら、問うべきは「悪人に弁護士は要るか」ではない。「貧しい人が、まともな弁護を受けられているか」である。

タイトルの「大罪」が何を指すのかは、一言では説明しにくい。悪人を守ることか。法を道具として使い切ることか。あるいは、見て見ぬふりをする側の罪か。劇場の暗がりで、その問いは観客にも向けられる。

【作品情報】

『映画 九条の大罪』 2027年1月8日公開/監督:土井裕泰/脚本:根本ノンジ/原作:真鍋昌平/出演:柳楽優弥、松村北斗、池田エライザ、町田啓太、音尾琢真、ムロツヨシ、生田斗真、黒木華ほか/配給:東宝

※本稿は公開前の時点で、公表されている作品資料、原作漫画およびNetflixシリーズに関する公開情報をもとに執筆した。映画本編の内容に関する記述は公表された情報の範囲にとどめている。
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