年間7万6千人が自宅で孤独に逝く国を、フィリピンの監督はどう見たか?『ひとりで死ぬのはイヤだから』と「おじさんの孤独」の構造
リリー・フランキー主演『ひとりで死ぬのはイヤだから』
2025年の1年間に、自宅で亡くなった一人暮らしの人は全国で7万6941人。警察庁の集計である。
このうち、死後8日以上経ってから発見された人は2万2222人にのぼった。内閣府はこれを、生前に社会的に孤立していたとみられる「孤立死」の目安としている。1か月以上見つからなかった人は7000人を超える。
毎日およそ60人が、誰にも気づかれないまま1週間以上を過ごしている計算になる。
この現象に、フィリピン出身の映画監督ジャヌス・ビクトリアが関心を持った。日本の孤独死を長年リサーチし、日本・マレーシア・フィリピンの合作として完成させたのが『ひとりで死ぬのはイヤだから』である。2024年の東京フィルメックスで上映され、2027年1月に劇場公開される。主演はリリー・フランキー。
『ひとりで死ぬのはイヤだから』©2027「Diamonds in the Sand」Film Partners
物語:東京からマニラへ
主人公のヨージは、離婚後、東京で一人暮らしをする会社員である。唯一彼を気にかけてくれていた母親が亡くなり、生きる意味を見失う。そんなとき、名前も知らないアパートの隣人が孤独死しているのが見つかる。自分も同じ道をたどるのではないか。その恐れに駆られたヨージは、かつて日本で介護士として働いていたフィリピン人女性ミネルバを追って、マニラへ向かう。
邦題は直截だ。ひとりで死ぬのはイヤだから。原題の「砂の中のダイヤモンド」が詩的な含みを持つのに対し、邦題は主人公の動機をそのまま言葉にしている。これを情けないと笑うことは簡単だが、笑える人は多くないはずだ。
リリー・フランキーは、この作品について、日本では孤独死が身近なイメージだが、家族と暮らすのが当たり前のフィリピンではあまり知られていない現象だと語り、「日本のおじさんたちの孤独が描かれている」という趣旨の発言をしている。
『ひとりで死ぬのはイヤだから』©2027「Diamonds in the Sand」Film Partners
孤立死はなぜ男性に偏るのか
内閣府の推計には、目を引く数字がある。孤立死2万2222人のうち、男性は1万7620人、女性は4598人。男性が女性のおよそ3.8倍である。
一人暮らしの高齢者は、女性のほうがずっと多い。平均寿命が長く、夫に先立たれて単身になる人が多いからだ。それなのに、孤立したまま亡くなるのは圧倒的に男性である。これは、孤立が「一人暮らしであること」とは別の問題だということを示している。
日本の男性、とくに現在の中高年世代は、人間関係のほとんどを会社の中に築いてきた。長時間働き、同僚と飲み、休日も接待や付き合いに費やす。地域の付き合いや親戚との連絡、子どもの学校との関わりは、妻に任せてきた。その結果、退職すれば仕事の人間関係は消え、離婚や死別で妻を失えば、地域や親族とのつながりも一緒に失う。
女性は、近所づきあい、趣味の集まり、友人との長電話といった、用件のない関係を保つことに比較的慣れている。男性の付き合いは、仕事や役割を介したものになりがちで、役割がなくなると、会う理由がなくなる。「用もないのに連絡する」ことができない。
加えて、助けを求めることへの抵抗がある。弱みを見せるな、人に迷惑をかけるな、と育てられた世代にとって、寂しい、困っている、と口にすることは敗北である。体調が悪くても病院に行かず、生活が苦しくても役所に相談しない。支援する側が訪ねても、「大丈夫です」と扉を閉める。福祉の現場では、これをセルフネグレクトと呼ぶ。自分で自分の世話を放棄していく状態である。
ヨージが離婚した会社員として設定されているのは、この構図を正確に踏まえている。年齢別の推計を見ると、孤立死は70代に集中しているが、60代、さらには現役世代にも広がっている。孤独死は高齢者だけの問題ではない。
『ひとりで死ぬのはイヤだから』©2027「Diamonds in the Sand」Film Partners
単身社会という不可逆の流れ
個人の生き方の問題として語るだけでは足りない。社会の形そのものが変わっている。
国立社会保障・人口問題研究所の推計によれば、日本の全世帯に占める単身世帯の割合は、2020年の38%から、2050年には44%に達する。50歳時点で一度も結婚したことのない人の割合は、男性で3割近く、女性で2割近くまで上がった。結婚して子どもを持ち、老後は家族に看取られる。かつて標準とされた人生の型は、すでに多数派のものではなくなりつつある。
一人で暮らし、一人で死ぬことは、これからの日本では特別なことではない。だとすれば、目指すべきは「一人で死なせない」ことではなく、「一人で死んでも、孤立はしていなかった」と言える状態だろう。最期の瞬間に誰かがそばにいたかどうかより、その前の日々に、気にかけ合う相手がいたかどうか。数日連絡がなければ様子を見に来てくれる人がいたかどうか。
2024年4月には孤独・孤立対策推進法が施行され、国と自治体に対策が義務づけられた。見守りのネットワーク、居場所づくり、相談窓口の整備が進められている。ただ、制度が用意する「居場所」に、もっとも孤立しがちな中高年の男性はなかなか現れない。体操教室やお茶会は、彼らの行きたい場所ではないからだ。役割があること、頼りにされること、腕前を発揮できること。男性の孤立対策がうまくいっている地域では、たいてい、そうした「出番」が用意されている。
『ひとりで死ぬのはイヤだから』©2027「Diamonds in the Sand」Film Partners
ケアを輸入してきた国の男が、海を渡る
本作が単なる孤独死の啓発映画でないのは、ミネルバという人物の存在による。
日本は2008年以降、経済連携協定に基づいて、インドネシア、フィリピン、ベトナムから看護師・介護福祉士の候補者を受け入れてきた。その後、技能実習や特定技能の制度にも介護分野が加わり、外国人の介護人材は急速に増えている。日本の高齢者を支える現場は、もはや彼らなしには回らない。
フィリピンは、世界有数の「ケアの輸出国」である。看護師、介護士、家事労働者として、多くの人が海外で働き、本国の家族に送金する。その送金が国の経済を支えている。彼らは、他人の親を介護するために、自分の親や子どもと離れて暮らす。豊かな国の孤独を埋めるために、自分の家族とのあいだに距離を引き受けている。
ミネルバは、日本で介護の仕事をして、マニラに戻った。ヨージは、彼女を追っていく。ここには苦い構図がある。日本はアジアから「ケアする手」を呼び寄せてきた。そして今度は、孤独な日本人の男が、ケアを求めてアジアへ渡る。彼が求めているのは恋愛なのか、家族なのか、それとも自分を看取ってくれる誰かなのか。その動機の中に、相手を一人の人間としてではなく、自分の不安を引き受けてくれる存在として見るまなざしが混じっていないか。フィリピン人の監督が撮る以上、その点が甘く描かれることはないだろう。
物価の安い東南アジアで老後を過ごす日本人は、以前から一定数いる。現地で安らぎを得た人もいれば、蓄えを失って困窮し、帰国もできなくなった人もいる。家族の絆が強いとされる社会は、外から来た者を無条件に迎え入れてくれる楽園ではない。その絆は、長い時間をかけた互いの義務と負担の上に成り立っている。ヨージがマニラで何を見つけるのか、あるいは何も見つけられないのか。そこが作品の核心になる。
ヨージを演じるリリー・フランキーは、『そして父になる』『万引き家族』などで、社会の標準からこぼれ落ちた、頼りないが憎めない中年男を演じてきた。立派でも悪人でもない、どこにでもいる男。その人物像に、彼ほど説得力を与えられる俳優は少ない。観客はヨージを見下すことも、英雄視することもできず、ただ「わかる」と感じることになるだろう。その居心地の悪い共感こそが、この主題には必要である。
『ひとりで死ぬのはイヤだから』©2027「Diamonds in the Sand」Film Partners
外からの目が映すもの
日本の孤独死を、日本の作り手はこれまでも描いてきた。遺品整理や特殊清掃の仕事を題材にした作品は多い。だがそれらは、どこかで孤独死を「この国の日常」として受け入れたうえで描かれている。
ビクトリア監督にとって、それは日常ではなかった。隣人が死んで何週間も誰も気づかない。その事実を初めて知ったときの驚きが、作品の出発点にあるはずだ。プロデューサーの一人は、孤独死は日本だけでなく世界の課題だと述べている。高齢化と単身化は、韓国、中国、タイでも急速に進んでいる。日本は、ほかの国がこれから経験することを先に経験している。本作は、その「先行事例」を、これから同じ道をたどるかもしれない国の作り手が見つめた記録でもある。
外からの視線は、内側にいる者が慣れきってしまったものを、もう一度奇妙なものとして見せてくれる。アパートの壁一枚向こうに住む人の名前を知らないこと。回覧板が廃止され、表札を出さないのが普通になったこと。それを私たちは「プライバシーの尊重」と呼んできたが、別の言葉で言えば、互いに関わらないという合意である。
死んだあとを、誰が引き受けるのか
孤立死の問題は、発見の遅れだけでは終わらない。その後がある。
身寄りのない人が亡くなると、火葬や埋葬は、亡くなった場所の自治体が行うことになる。親族が見つかっても、長年の疎遠を理由に遺体や遺骨の引き取りを断られる例が増えている。厚生労働省が初めて行った全国調査では、引き取り手のない遺体は年間4万人を超えた。自治体の担当者は、戸籍をたどって親族を探し、連絡がつかなければ公費で火葬し、遺骨を保管する。その事務と費用の負担は、年々重くなっている。
住まいにも影響が出ている。賃貸住宅の家主の多くが、高齢の単身者の入居に拒否感を持っている。室内で亡くなり、発見が遅れれば、原状回復に多額の費用がかかり、次の借り手も見つかりにくくなるからだ。孤独死を恐れる家主の心理が、高齢者を住まい探しの段階で締め出す。国は、見守りサービスを組み合わせた住宅の仕組みを整えるなど、家主の不安を減らす方向で法律を改めたが、問題の規模に追いついてはいない。
入院や施設入所の際に求められる身元保証人、亡くなった後の葬儀や家財の処分、役所への届け出。かつては家族が当然のように担ってきたこれらを、家族のいない人は誰に頼めばいいのか。こうした手続きを有料で引き受ける民間の事業者が増えているが、契約内容が不透明だったり、事業者が破綻して預けた金が戻らなかったりするトラブルも起きている。国はガイドラインを示したものの、監督する仕組みは十分ではない。
ヨージが恐れているのは、死そのものより、こうした「死後の宙づり」かもしれない。誰にも見つけてもらえず、誰にも弔われず、行政の手続きとして処理される。その恐れは、彼一人のものではない。家族に頼れない人が多数派に近づく社会で、死後の始末を個人と家族の責任にしたままでよいのか。この問いに、日本社会はまだ答えを出していない。
『ひとりで死ぬのはイヤだから』©2027「Diamonds in the Sand」Film Partners
この映画をどう観るか
鑑賞にあたって、三つの視点を挙げる。
ひとつめは、ヨージを憐れまないこと。彼は特別に不運な人間ではない。離婚し、親を見送り、会社と家を往復する。同じ条件の人は、この国に数えきれないほどいる。彼を「かわいそうなおじさん」として眺めるなら、観客は安全な場所にいることになる。そうではなく、自分の10年後、20年後として観ること。
ふたつめは、ミネルバの側から観ること。彼女は日本で何を見て、どんな思いで帰国したのか。追ってきた日本人の男を、彼女はどう受け止めるのか。物語がヨージの救済のためだけに彼女を使っていないかどうかは、本作を評価するうえでの試金石になる。
みっつめは、観終わったその日に、一人に連絡を取ること。用件はなくていい。しばらく会っていない友人、離れて暮らす親、退職した元同僚。「元気か」の一言を送る。それだけのことが、なぜこれほど難しいのかを、送る前の数秒間に考えてみる。
ひとりで死ぬのはイヤだ。その恐れは正直である。しかし、恐れるべきは死の瞬間の孤独ではなく、そこに至るまでの長い年月の孤立のほうだ。ヨージは海を渡った。私たちの多くは、隣の部屋のドアを叩くことから始めるしかない。
【作品情報】
『ひとりで死ぬのはイヤだから』(原題:Diamonds in the Sand) 2027年1月16日公開/監督・脚本:ジャヌス・ビクトリア/出演:リリー・フランキー、マリア・イザベル・ロペス、古舘寛治、吉行和子ほか/日本・マレーシア・フィリピン合作/配給:Spanic Films
公式サイト
※本稿は公開前の時点で、公表されている作品資料と映画祭上映時の報道、警察庁・内閣府・国立社会保障・人口問題研究所の公表資料に関する公開情報をもとに執筆した。本編の内容に関する記述は公表された情報の範囲にとどめている。